2008年04月05日

穂史賀雅也『暗闇にヤギを探して』

穂史賀雅也『暗闇にヤギを探して
穂史賀雅也『暗闇にヤギを探して』(2006~2007)

全3巻。良かったので覚え書きを残す。

身も蓋もなく1行でまとめれば、生徒会長のミリオン先輩と幼なじみの風子と超能力者のまひるが主人公を取り合う話。

春樹っぽい。なんか主人公は冴えない人間だけどもてちゃう。臆面もなく夢で少女と対話する。それは草原のイメージや暗闇のイメージと切り離すことができない。動物に関する記述が多い。
キャラ造詣はラノベらしくしてて、それで春樹的な幻想と運命のお付き合いをするんだから萌えないわけがない。
ミリオン先輩に噛まれるのが実にいい。「先輩はオレのことおいしそうって見てくれてるんですね!」って思うだけで胸が苦しくなるよ・・・・・・

主人公が暗闇を恐怖すること、風子が着ぐるみを着ること、まひるの能力、そういった要素は悉く理由を欠き、足場がなく、無意味である。それが素晴らしい。
百合フラグを過去と現在の二重露出にする詐術も意味がない。だからこの小説は信用がおける。これこれこういう背景があるんです、というエクスキューズを無闇に盛り込まない。
ヒロイン風子を好きになる女装少年「大上/ひつじ」(男性のときは「おおかみ」で女装中は「ひつじ」になっている賢しさもよくわからない)を始め、みんなばしばし出会っては別れていく。両親だって他界してたり単身赴任だったり、帰ってもすぐ出立する。共通してドライだ。なにか他に戦わなければならないことがあるかのようだ。それがミリオン先輩が主人公を諦める小説上の理由になる。
ミリオン先輩は主人公が文字を書いた紙しか固形物は食べられない。そういう設定である。そこから始まってそこに終わる。その病状は主人公を諦める瞬間から緩和していく。このカタルシスを支えているのが上述のドライさだ。より多くの人と関わっていけるドライさだ。ミリオン先輩は人生に必要な技術を一つ獲得したのだ。
まとめめいたものはまあいい。
夜の学校に忍び込むと、少女が自分のノートを食べに教室に来ている。風車はまわり、猫が待っている。そういう空間がここにもあったのが、素直に嬉しい。

2008年01月19日

百合ニュース

ニュースである。
勝手に敬愛している中里一氏の新作がガガガ文庫より刊行される気配である。
私にとってはたいへん良きニュースである。
あんまりいいことが続くので、俺は死ぬかも知れないと思っている。ヤバイ。
『GUNSLINGERGIRL IL TEATRINO』のED曲を麻枝准が作詞作曲していたり、桜庭が直木賞を受賞したり、そして今回のこれである。
中里一氏は私の知る限りで最も百合を理解し、愛し、遠くを見据えている方である。彼の言葉は百合に限らずよきものであるが、まあ今はそれはいい。
とりあえず興味のある方は『歴史のくずかご』を読まれたい。私はこれを読んで世界が広がった。「三位一体のお誘い」である。

2008年01月18日

桜庭一樹、直木賞受賞

桜庭一樹が直木賞受賞である。
たいへんめでたい。
おめでとうございます!!
一報を頂いたときは感極まって挙動不審者とあいなった。
取り急ぎ祝辞をしたためる。

受賞作の『私の男』は実はまだ読めていない。勿論買ってはいるのだが。
『推定少女』に出会い、彼女の描く「少女感覚」に一発でやられ、以来桜庭にぞっこんであるが、記者会見での「少女が大人になったり、大人が少女になったりするものを書いているので、少女から離れようとしているのかも」の言葉にあるように、それは変化している。適当に言い換えれば、中二病から離れたように見える。それは脱却ではない。中二病は卒業するものではない。何らかの形で一生付き合っていくものだと、今の俺は考えている。「みんなのいうことは筋は通ってるけど、なんだか納得できない」という感覚。やれと言われて、もしくはそうすべきだと判断して、けど素直にそうしていいものだろうかという感覚。ためらい。逆に聞く耳を持たない透徹した意志と行動。この乖離性は根源的なものだ。美徳も悪徳もそこから始まるのだ。
桜庭の書く少女たちの疾走は、ためらいのネガと言っていい。それは身体ごと引き裂かれそうな、最適解の存在しない状況への抵抗であり、不自由からまた違う不自由へと進んでいくための燦然たる力の発露だ。力を発揮するとき人は別人になる。だから少女は大人になり、大人は少女になる。それでいいと思う。少女から離れても、いつだって人は少女に戻ることができる。いつだって人は不自由なゆえに。

というわけで桜庭にはこのまま書いてもらえばいいのである。
今後はライトノベルレーベルからGOSICKだけでなく他の新刊が出たら面白いので、強く希望する。ほんといい時代になったと思う。

2007年12月01日

『もっけ』が終わるとき

森田季節氏から原稿をいただきました。
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 テレビ版の『もっけ』を見ていて、あらためてこの作品の特徴がはっきりと出た気がした。以下、つらつらと書くのは至極当然のことだ。つまり、『もっけ』の主題は子供が(とくに母)親から切り離され、外界に出て行くものだということを述べる。
 まず、親といっても『もっけ』には、主人公の二人の娘、瑞生・静流の両親はあまり出てこない。これは設定上、祖父母の家で育てられているから当然なのだが、もちろんここから親がたいしたウェイトを占めてないなんてことにはならない。両親の役割はじいさんとばあさん(以下、このように表記する)が引き受ける。これも当たり前だ。物語は違うモチーフを使って、言いたいことを偽装する、あるいは隠蔽する。そもそも正面切って親から「子供が切り離されて成長していく話」を持ち出しても、あんまりエンターテインメントにならない。いや、なるかもしれないけど。とにかくじいさん・ばあさんが『もっけ』の鍵だ。お化けや妖怪を扱っていながら、お化けや妖怪のの重要性は明らかに低い。
 さて、その両親役を担う老年の二人についてだ。ここで注意したいのは、ばあさん=母親というような単純な分担はなされてないということだ。見てれば誰でも気づくが、ばあさんよりはるかにじいさんの意義のほうがどうしたって、でかい(そもそもばあさんは途中で亡くなる)。その影響は役割分担においても現れている。もったいぶることでもないので書いてしまうと、じいさんは母性の一部ともいうべきものを二人に与えている。だからといって、このじいさんはかなり厳格でろくに笑いもしないのだが、この点は重要だ。これについては娘二人とのかかわりで後述する。

 では以後、この誤読めいた説を補強していきたい。結局、誤読だったら謝るが、まあ誰かが言ったように誤読可能性のあるテキストこそすぐれたテキストである所以なので、それだけ『もっけ』がすぐれた作品なんだなと思って許して頂きたい。
 まず、主人公の姉妹の特徴について確認しておく。
妹の瑞生=お化けが憑く
姉の静流=お化けが見える
 以上。この特徴の違いは、個人的に非常に重要だ。少なくとも逆であってよいものじゃない。
 最初に妹から話す。エンターテインメントとして見れば、憑くほうが話は圧倒的に動かしやすいから、妹の瑞生のほうが話の主になることは多い(と思う。ちゃんと統計とってないけど)。ここでもう一度だけ繰り返すと、瑞生はお化けの存在が見えない。にもかかわらず、とりついたお化けは瑞生に影響を与える。ここに、じいさんが絡んで、あるときは助けてくれ、あるときは自分でなんとかしろと突き放し、あるときはそもそもじいさんが不在なので自分でなんとかするしかないというのが『もっけ』の代表的ストーリーラインの一つだ。
 憑く側は善人?であることもあれば悪人?であることもある。ただし、憑く側自体に善意や悪意があるかはわからない。お化けの世界のことは、読者側も筋道を立てて黒白をつけることができない。それは異界の存在だからだ。しかし、瑞生になんらかの心理的変容を与えることは共通している。この変容が作品の肝と言っていい。これで瑞生が成長しなかったら『もっけ』はたんなる秀逸なお化け漫画・アニメで片づけられることだろう。
 では、成長っていったい何か。それは大人になるということとだいたい同じだ。では大人になるとはどういうことか。それはいいこと、悪いこともたくさん見ることによって、自分に降りかかってくる物事に適切に対処できるようになることだ。子供はそれができないので、新しい環境に放り出されれば困惑する。たとえば迷子になれば立ち止まって泣いてしまう。あるいは過剰に反応する。たとえば戦争みたいな社会悪・絶対悪を見ると激烈に憎んだりする。だが、大人はテレビで戦争を知って激怒したりまではそんなにしないし、迷子になっても地図を探したり、人に聞いたりして対処する。つまり経験値が自分の行動を安定させている。それによって新たな外圧に対応できる。で、ほとんど答えを言ってしまっているが、お化けとはまさに瑞生にとっての外圧じゃないか。
 ここで一面的なきらいはあるが、仮にお化け=社会に渦巻いている悪意と置く。お化けにだってイイモンもいればワルモンもいると思うが、イイモンだけでは『もっけ』の話も成り立たないし、そもそもこの論考にとって不都合なので。
 瑞生は外出するたびにお化け=悪意に憑かれるのではないかと警戒しなければならない。それは毎日の通学路さえ、遠回りして通わなければならないときがあるくらい徹底している。
 それでも、ときにはお化け=悪意に憑かれてしまう。このとき、彼女を助けてくれるのはじいさんにほかならない。藤井氏が「中二病すれすれ」と表現するほど、極めて厳格というか堅物なじいさんだが、いざ彼が動き出すとお化けは確実に祓われ、打ち負ける。じいさん自身は漫画版「オクリモノ」において「俺らは奴らと交渉する立場なんだ 拝んで離れて戴くんだよ 誰でも彼でも祓える様な大層な身分じゃねえ」と言っているように、自身の限界を語っているが、それでも作中でじいさんが敗れることはない。お化けに対して、じいさんは完全無欠で全能な存在として表現される。ここに、じいさんに母性があると前述した理由がある。
 じいさんはある種相当な偏屈な男で、「中二病すれすれ」の論理を持ち出し、瑞生らを突き放すが、それでも彼にそれなりの説得力があるのは、その圧倒的な力にほかならない。じいさんが尻を浮かすことは、黄門様の印籠のようなものだ。どんな厄介な悪意がやってきても、じいさんの力に頼れば必ず祓われる。これは赤ん坊が母親に対して抱く全幅の信頼と呼応する。彼らの住んでいる家、つまりじいさんのいる環境は瑞生にとっていわば母胎にあたる。このなかにいて、彼女が何者かに害されることはない。温厚なばあさんや姉、飼い猫と静かに生きることができる。外から悪意が家めがけてやってくることは構造上ありえない。
 しかし、じいさんはドラえもんのように泣きついてきた彼女をほいほいと助けてくれるわけではない。不用意な結果で招いた事態や、小規模な不都合は「大した傷じゃねェ 手前(テメエ)で嘗めて治せ」と突っぱねる。これはじいさんが父性も兼ね備えていることを意味する。母性が包み込む愛であるのに対し、父性は切り離す力を子供に教える。瑞生はじょじょにじいさんから距離をとりながら、困難に立ち向かう。それが『もっけ』という作品の大きな行動指針である。アニメでは早めに放映されたが、瑞生がじいさんと遠く離れた就学旅行に出かけ、危機を一人で辛くも回避する「ヤマウバ」が漫画版では瑞生が中学生になる31話の三話前の28話という位置にあるのも偶然ではない。これを一巻や二巻の段階で表現することは瑞生の成長の段階からして不可能だ。

 さて、瑞生は小学生から中学生になるまで成長し、その成長はまだ続いている。もちろん姉の静流も同様だ。静流の場合は、全寮制の高校に入学するという極めて明確な切り離し方法がとられる。ここでは主に瑞生との違いについて書く。つまり、「見える」と「憑かれる」の違いだ。
 これは静流の中学生という登場時の立場が影響している。小学生の瑞生と比べ、年齢的にも成熟している静流は、お化け=悪意を「見る」ことができる。「見る」とは悪意を客観的に認識できることを意味する。だから、見れない瑞生と比べると静流は自身が悪意にさらされることが少なく、むしろ悪意にとり憑かれている周囲の人間にたいして心を痛める。しかし、彼女自身には悪意に対抗するだけの能力はなく、解決をじいさんに頼ることになる。それは中学生の彼女の限界を示している。悪意を察知し、それから距離を置くことはできても、主体的に悪意を除くまでには至らない。逆に言えば、彼女が全寮制の高校に進学することを決めるのは、彼女が大人としての成熟の道を選んだことを意味する。今後、彼女が主体的にお化け=悪意を祓う話が生まれることは十分ありうるだろう。これは、「見える」人間に課せられた責任である。子供より多くのものを見てきたからこそ、大人には判断に責任が要求される。漫画版9話の「ミコシ」のじいさんの言葉がそれをよく示している。
「……いいか静流 ただ見えるだけでは徒に不安が増すばかりだ 見えるという事がどういう事か見えているモノは何なのか 御前はそれを先人の知より学びそして自ら考えていかねばならない」
 これは大人と子供の宿題の違いだ。瑞生にとって課題なのは「見る」ことだが、静流には一段階上の課題が与えられている。だからこそ、『もっけ』は姉妹の物語でなければならなかった。一人っ子だったら、こうした対比を表現することはとても難しくなっただろう。

 以上、早足で強引な誤読を展開してきた。最後だし、繰り返す。『もっけ』は姉妹二人が母性から切り離され、成長していく物語である。この切り離しは残酷なまでに徹底している。ばあさんが作中の途中で亡くなるのなど、その典型だろう。『もっけ』は某海鮮家族みたいに同じ年齢で永遠に生き続けるタイプの作品ではない。時間は止まらず経過し続ける。彼女らはキャラクターの死という物語の暴力さえ使われて、自立した大人になることを強制される。『もっけ』の読者は彼女二人の成長を見守るスポンサーなのかもしれない。
 さて、タイトルに「『もっけ』が終わるとき」と書いたが、これはどういうことか。ちっともそんなことに言及してないじゃないかと思われるかもしれない。本来、時間が流れるタイプの作品では、主人公が学校を卒業すると同時に物語も幕となる。大学生版『あずまんが大王』も社会人版『げんしけん』もオリジナルでは存在しないのだ。しかし、『もっけ』は姉妹がそれぞれ中学校と小学校を卒業したのに話が続いてしまった。この場合、いつ終わるのだろうか?
 たぶん外れると思うが、予想を一つしてこの誤読も幕としたい。それはじいさんが死ぬときではないだろうか。じいさんが亡くなったとき、姉妹二人にはついに頼るものがなくなる。その離陸が成功だろうと失敗だろうと、彼女たちは後戻りのない巣立ちを体験する。それ以上の母性からの距離のとり方はないので、物語は継続できない。そんなわけでこの論考の論理のままでいけば、一応筋は通っていると思うのだが、どうだろうか? そんな悲しいラストは問題だという声もあるかもしれないが、心配しなくてもいい。彼女たちの行く末を見守ってくれる心優しい読者がたくさんいるじゃないか。そう、あなたもです。『もっけ』の読者は姉妹二人を保護する義務を負う。だから、僕らは読者をやめることができない。みんな、大人の目で彼女たちを見守っていこうではありませんか。

2007年11月22日

ミク試し描き

miku01.jpg

皆様ご無沙汰しております。
挨拶代わりにミクをはります。

挨拶だけでは不調法ですので、今期のアニメの話を軽くさせていただきます。

・灼眼のシャナII
ガチ戦闘そっちのけで、三つ巴の坂井悠二争奪戦。あっちもこっちも惚れた腫れた。もっとやれ!それが見たかったんだ!!

・こどものじかん
菅沼栄治監督。ラムネやMAZEの頃から菅沼さんのロリ絵が好きでした。スニーカー文庫の『MAZE☆爆熱時空』のカラーイラスト、未だに目に焼き付いております。だから見ます。

・逆境無頼カイジ
アカギの圧倒的な面白さを期待したけど、そこまではまだないです。

・もっけ
とても安心して見られます。
おじいさんが気になる。賢者キャラなんだけど、中二病すれすれの理屈がまじる。

・BLUE DROP 天使達の戯曲
登場人物が過剰に頻繁に頬を赤らめている。いやいやそこは百合的に見ても恥ずかしがるとこじゃないだろ、と思うような箇所でも赤らめてくる。それを見ていると、記号の力、文脈の力に考えが及ぶ。
この作品は百合なんだから、恋愛感情に通じる場面で少女が赤面するのは正常だ。というか、それ以外にないはずだった。ところが「彼女と彼女の関係性」を読み取りがたい状況でも、バッチリ赤面している気がする。見直すと「ああ、それで恥ずかしがってるのか」と気づく箇所は確かに多々ある。香月みち子は特に頻繁に赤面しているが、彼女は内気で妄想がちでアガリ症なので、納得はできる。しかし例えば、「驚き」のみですむところを「驚き+赤面」にしていたりする。明らかに意図的に付与されている。
これは「百合ですよ。少女同士が恥ずかしがってますよ」というエクスキューズなのだろうか。そうかもしれないが、それだけではなさそうだ。
そんなこんなで先が気になるアニメだ。

・神霊狩/GHOST HOUND
まだ一話しか見てないが、やっとるねぇ!と嬉しくなった。
中村隆太郎・小中千昭のタッグに期待。

・CLANNAD
1話は特にそうだったが、テンポ良く、間を作らずにやっていくようだ。
風子シナリオを先に片付けている。唯一“街”の外にいたキャラを最初にやる狙いはなんだろう。
原作のオーラス中のオーラスに出てくるのは風子だ。手堅く最初と最後を飾る算段か。

映像で見ると、Keyのキャラは特に池沼じみている(それがなおよいのだが)。ゲームでは違和感がなくても、映像ではキツく感じやすい。
単純に慣れのせいなのだろうが、ギャルゲーをやっているときはTPOに配慮する脳の回路が鈍磨しているのではないか、という仮説を思いついた。
私は初めてエロゲー(『Natural -身も心も-』)に触れたとき、プレイ中、「校内でこんなこといたしてていいのかよ、誰かに見つかって大変なことになるんじゃないのか」と実に道徳的な(害悪でしかない、思考停止した)焦燥感を覚えたものだが、じきに気づいた。この世界に通行人はいない。第三者はいない。
その暗黙の了解が主因なのだろうが・・・・・・