TVアニメ『吉永さん家のガーゴイル』

原作はファミ通文庫のライトノベルで、こちらは未読。本稿ではアニメ版を扱う。
とりたてて前評判は聞かなかったが、放映開始よりネット各所での評価が高く、それなりの視聴者を獲得したと思われる。その評価の根拠を詳らかにしたい。ネタバレには一切配慮しない。
*あらすじ
平和な御色町には、
吉永さんという一つの家族がいた。
ただ……かなり個性的な一家だった…。
小柄な女の子でありながらも特技はプロレス、
好きな言葉は「先手必勝」な
勝気なトラブルメーカー双葉。
華奢な姿とおとなしい性格から、
五割の確率で女の子に間違えられる兄の和己。
身体も声も大きいパパに、
とにかく無口だけど最強なママ。
そんなある日、双葉が商店街の福引きで
引き当てたのは…
喋る犬の石像で!?
しかも吉永家の門番になる??
吉永さん家の門番は超渋くて超キュートで超最強!
個性豊かな吉永さん一家と商店街のみなさんとの
“ご町内ハートフル&ハッピーコメディ”!
(OHPより)
*キャラクターデザイン
あらすじを一見すればキャラクター性が前面に出されていることがわかる。キャラクターといっても犬の石像「ガーゴイル」を始めとして、盲導犬「エイバリー少尉」、携帯電話をスピーカー代わりに喋る植物「オシリス」など人外の面々も多く、彼らと人物が統一的にデザインされることで、破天荒な設定や展開を許容しリアリティを支えている。日向悠二によるキャラクター原案なくしては、本作の説得力は成り立たないと私は考える。その特徴と優位性をまず語る。
人物の骨格や肉付きにはディフォルメが施されており、女性陣の瞳に至っては縦の長さが頭蓋骨の五分の一ほどの大きさで、ロリ属性の視聴者には求心力のあるデザインだ。主人公格の女性陣はともかく、他キャラの顔の骨格は幾何図形的に差異化されている。もちろん差異化は顔の輪郭だけでなく瞳・口などのパーツや骨格・服装にも及び、凡そセリフのあるキャラは50名ほどいるが、彼らを見間違うような事態はありえない。
たとえば衣服のシルエットは簡略化されており、金具等のパーツを大きめにデザインすることで記号性を高めている。より一般化すれば、線画の殆ど全てが構造線として機能しており、情報の伝達効率が非常に高い。かような精度の描線により描き分けられる立体物は、人物だけでなく犬・石像・植物も表情を持つキャラとして彫像されている。
アクションや表情のパターンも豊富で、軽妙に元のバランスを逸脱するが、それらのアニメ・マンガ的「遊び」を容認し想像力を刺激するポップアートに近いキャラデザで、この多種多様さと統一度はそれだけでも偉業であると同時に、喋る石像その他奔放なキャラや、双葉のドロップキックに代表されるテンポアップ等、物語世界の自由度を保証している。
*ストーリー
第1話紹介(OHPより)
今日も新聞を持ってきた配達員を黒こげにし、主の双葉にドロップキックで蹴落とされる、
門番型自動石像ガーゴイル。彼は任務に忠実なのだが加減を知らぬ対応に、双葉に蹴倒される毎日だ。
そんな中、ガーゴイルは双葉の友人・小野寺美森の家の盲導犬エイバリー少尉の評判を聞き、
同じ主人に信頼されるべき存在として興味を持つ。その夜、小野寺家に怪しい人物が侵入するのを
ガーゴイルの探知機能が察知して…。
ちなみに小野寺美森の父が盲目である。
ではその後を補足する。
ガーゴイルと双葉の助けにより、強盗は逮捕され小野寺家も被害を被らずにすむ。しかし強盗に対して吠えなかったエイバリー少尉に、美森は不信感を募らせ、一時的な登校拒否に陥る。犬や猫とも会話できるガーゴイルがエイバリー少尉に事情を聞くと、「すでに美森が拘束された状態で無傷に守るには、抵抗せずに金品を渡して帰ってもらうのが適切」と判断したことがわかる。美森の安全を最優先としたエイバリー少尉の判断を聞かされた美森は、少尉を信頼できなかった自分を恥じ、克服するためにその夜目を瞑ったまま町内を少尉と巡る。恐怖している自分と、いつも笑顔で歩く父を対比し、父の笑顔と安心は少尉のおかげなのだと確信した美森は「少尉はいつも一番だよ」と労う。その帰路において双葉と出会い、彼女らは近所に賊が侵入するのを目撃する(その夜第二の強盗現場)。双葉はガーゴイルを呼ぶために、既に対策がとられていた第一の現場へと急ぐ。ここで美森の足がすくむ。動けない美森の安全を確保するために、賊を退散させたい。少尉は吠えようとするが、盲導犬として訓練されているため吠えられない。直接威力に頼るしかないと判断し、少尉は現場へと駆け参じる。現場はガーゴイルの力で収拾されるが、少尉は傷を負ってしまう。盲導犬故の負傷に美森は涙する。言葉は通じずとも互いを思い合う二人。それを見て、言葉の話せる犬の石像であるガーゴイルは双葉との不和を不甲斐なく思う。内省に入りかけたところでガーゴイルが異変を察知する。状況が終了した第一現場にいたはずの双葉が消えた・・・・・・ここで第一話は終わる。(伏線として、賊を援助し第一現場を監視していた謎の人物が、ガーゴイルに不逞な関心を寄せていることが既に挿入されている)
絵柄からしてオタク向けなアニメの第1話において、盲導犬を物語るとは瞠目させられる。どうせ適当なキャラクター消費アニメなんだろと先入観を持っていたのは私ですすみません。お涙頂戴な自己犠牲と忠誠の記号として盲導犬を扱うのではなく、あくまでも少尉と美森相互の信頼関係を主軸としており、説話論的にも水準以上である。信頼関係の回復と平行して、門番だけでなく御色町の番犬としての自覚を持ち始めたり、双葉との不和を内省させるなど、タイトルを張るガーゴイルに焦点を当てることも忘れていない。双葉消失と、次の話への引きも十分だ。各話のラストに次話への導入を張る構成は第5話まで続けられ、1~6話は大きな時間経過のない一本の物語となっており、視聴者を引き込んでいく。単話だけでなくシリーズ構成にも懈怠ないのは、さすが原作つきといったところか。
第1話を例にした局所的な解説を終え、総体的な物語空間に筆を移そう。
1~7話までは、キャラクターの層を厚くする役割を担っている。各話にメインとなるキャラクターがおり、ストーリーを通じて彼らの人格や来歴を伝え、内面をもつ生きた存在へ昇格させている。彼ら前半で焦点が当てられるキャラクターはその後の重要度も高い。
町の外部に初めて視線が向けられる第8話を転換点として、その後は特に新らしいキャラは登場しないが、既登場キャラクターの内面の深化が図られ、平行して御色町商店街を代表とする外界が描出される。最終13話へ向けて、10話からは話数をまたいで『場』をめぐる伏線が張られており、『ガーゴイル』の面白さを十全に伝えるには無視できないので、ここに梗概と簡単な注釈を加える。なお9話にも最終話で使われる素材が張られているが、特に重要ではないので省略する。
・10話
五〇年の歴史を持つ御色町商店街だが、駅向こうに来春オープン予定のデパートの煽りを受け、客足は遠のいていた。打開策としてガーゴイルは商店街のマスコットを引き受けるが、決定力に欠ける。次策に、怪盗百色がガーゴイルの首の鈴を盗むと予告状を出す。予告当日、TVリポーターも駆けつけ賑わっていたところオシリス登場。てんやわんやしつつも百色とガーゴイルが機転を効かせ事なきを得る。しばらくは活気づく商店街であった。
>ガーゴイルの鈴は以前お隣のお婆さん(ガーゴイルを「狛犬さん」と呼ぶ)から泥棒退治のお礼に進呈されたもので、その謝意がガーゴイルの感情の醸成に一役買っているし、門番たる動機付けにもなっている。この原体験と心情は回想で語られるが、当該時期に桜の舞う神社で狛犬と対話する形式で描写される。
・11話
クリスマスが近づいていた。吉永和己に恋心を寄せる片桐桃は、兎轉舎(ガーゴイルを作った錬金術師・高原イヨが営む怪しい骨董屋)で黄色い毛糸玉を買い求め、夜なべして人形を編む。桃は和己を呼び出し、プレゼントの人形を渡そうとするが、紛失している。人形は商店街で「和己」を捜して歩き回っている。桃の意志が封じ込められたわけだ。和己と桃は捜索するが見つからず、神社で休憩する。和己の口から、神社の御神木である桜の「この桜の下でした約束は必ず叶う」という言い伝えが語られる。雪が降り始める。桃は想いを告げようとするが、垂り雪に腰を折られ、秘めたままとなる。ガーゴイルらにより人形が届けられるが、もう動くことはない。
・12話
御色町商店街恒例、神社の御神木を奉る「さくら祭り」の季節がやってきた。しかし、駅向こうのデパートのオープン日を祭り当日にするという宣戦布告が、支配人・松川によりもたらされる。松川と吉永パパは旧知の仲で、事情を知らないパパはデパートのオープンセールの協力を約束をする。さくら祭りを毎年手伝っているママは怒り狂い、未曾有の夫婦喧嘩となる。
折しもオシリスの失踪(何者かに捕獲された)、ケルプの暴走(これも何者かに操られた)、松川が「日本一イベントを盛り上げるのがうまいお祭り屋」を雇用、などが重なる。夫婦喧嘩も落ち着く気配を見せず、事態は混迷を窮める。
>神社の桜を見上げるママが何度か挿入されており、喧嘩中に至っては涙を流しさえする。
・13話
さくら祭りが始まった。商店街とデパートが競り合うさなか、神社の桜にオシリスが融合・巨大化し、周囲を破壊し始める。レイジとハミルトンの逆襲だ。伸びる枝に萌黄のリボンを見つけたママと着ぐるみパパはこれを追ってよじ登る。ケルプはガーゴイルを襲うが、犬猫たちの加勢で退けられる。百色がレイジとハミルトンを撃退する。兎轉舎謹製マインドダイバーで巨大オシリスの心に入りこんだ双葉は、桜の記憶を遡行的に幻視する。桜の木の下で遊ぶ幼い自分。ママにプロポーズせんとパパがリボンを出すが、風で桜の枝にひっかかり、いつか二人で取りに行こうと約束したこと。双葉はさらにハナ子と再会し、解き放とうとする。外界ではママとパパがリボンをつかむ。ハナ子は頸木を解かれ、オシリスの暴走は止まる。パパはママにリボンを結わき、「祭りとデパートが競い合って、もっと盛り上がればいいと思った。自分にとってもこの祭りは大切な思い出だから」と告げる。
誰も彼も元の鞘に収まり、愉快な日々が続く。ガーゴイル:「御色町すべて問題なし」。
>商店街の客寄せとして高原イヨにより巨大立体映像装置が使われるが、巨大オシリスの暴走収束時に装置が取り込まれ、着ぐるみパパとママの抱き合う姿がでかでかと映し出される。
以上より、神社の桜をゲニウス・ロキとした商店街・御色町を、そこに住まう人々が保守する構図が見て取れる。
着地点を先取りしたところで、いかにそこへ向けて物語が記述されているかを俯瞰しよう。
ガーゴイルは冒頭から「吉永家の門番」であり、また御色町の守護者としての自覚にも芽生えていく。双葉との不和は家庭レヴェルの問題で、これは序盤に解決される。彼を狙う敵のうち東宮天祢と怪盗百色は、出会いこそ対立の形ではあったが、彼らもまた御色町の構成員として回収されていく。敵のもう一派であるハミルトンやレイジは、梨々の悪しき父と、梨々の小父となる百色に恨みを持つ者で、最後まで対立する者達だ。前者の敵はいわば身内(ご町内レヴェル)の結束を固めるための通過儀礼の類で、後者の敵はその結束を試す、おおざっぱに言えば外敵である。
三段構えで拡大していく対立構造が示されたわけだが、ここで参照して欲しいのが第8話「銀雪のガーゴイル」。例によって高原イヨの怪しげな改造を施されたガーゴイルが過去を透視するどころか過去に行ってしまい、今はなき山村で和己と双葉そっくりな姉弟に出会う。彼らは山の守り人の血筋で雪崩を予知するが、病弱で臥せっている姉は自分はいいから村人達を助けに行ってくれと頼み、ガーゴイルはそれに応えて村はつぶれるも村人は救われる話で、ラストでは伝承として現代に接続される。この過去のさらに2年前、件の姉弟の両親(これまた吉永パパとママにそっくり)が、雪崩を予知し村長に進言するも聞き入れられず、幾人かの村人と両親らが犠牲になるエピソードがフラッシュバックされている。これらの内憂と雪崩という外患は、まさに前述の三段の対立構造と対応する。吉永家のドッペルゲンガーが登場するこの村は御色町の箱庭であり、10話から描かれる町の危機と防衛の縮図となっていて、残念ながら山村は壊滅するわけだが、この体験で御色町の守護者としてのアイデンティティを確固としたガーゴイルは、もちろん彼だけでは為し得なかったことだが御色町を守り抜くわけだ。タイムスリップは高原イヨの錬金術に拠っていて、超常性を不満に思う視聴者もおられるかもしれないが、錬金術で生まれたキャラや道具は既にいくつも登場し、彼らは自ずから考え行動し人格を見せつけ、また道具もその功罪をテーマに消化しつつ効果的に物語を魅せてきた以上、我々はそれらを作品が規定する所与のルールとして受け入れなければならないし、このルールを最大限利用して、文脈を跳躍しつつ自己言及的な挿話をさらりと挟んだシリーズ構成はただごとではなく、第8話が『ガーゴイル』の作品水準を高みへ押し上げていると言っても過言ではない。
次に対立と和解のより詳細な構造を見ていきたい。
百色に代表される「御色町共同体」に吸収されていく面々は、登場時は「異邦人」の性格を与えられているわけだが、彼らが構成員となる前提条件は意思疎通の可能性である。
百色は怪盗というファンタジックな設定であるものの、故郷を求める一人の人間としても描かれる。彼は梨々の保護者となることで御色町に安住する権利を得たが、その前にガーゴイルとの対立・戦闘を経ていて、これは大変説明的な構図なのだが、動物や石像としゃべれる自動人形ガーゴイルを緩衝体に御色町へ参加していったわけだ。戦闘なんて単なるエンターテインメントの要請じゃないかと聞こえてきそうだが、いや、待って欲しい。さんざ対立対立いっておいて申し訳ないが、対立と和解という通過儀礼は本質ではなくて、潜在的な構成員である彼ら彼女らが発見されればそれですむのだ。その証左に挙げたいのが、ハナ子(後にオシリスへ融合)と双葉の交流を描いた5・6話で、植物と喋れるヘルメット(兎轉舎謹製マインドダイバーの原型)が在って初めて双葉はハナ子を発見したし、ハナ子とオシリスは御色町に参加できたのだ。
ここで前提条件「意思疎通の可能性」に帰ってくる。ガーゴイルの門番という立場は、確かに対外折衝を担いうるが、何よりもガーゴイル自身が錬金術から生まれた境界例的存在であることが要諦で、だからこそ怪盗百色はまず彼と出会わなければならなかったのだ。アウトサイダーを町の内部へ取り込んでいくには、ガーゴイルやマインドダイバーに類する意思疎通機能が不可欠で、機能を通して交換される情報自体は、戦闘であったりハナ子の声ならぬ歌であったり(この歌を使った音響演出の美しさといったらため息もので、誰か酒でもつきあいながら語り明かしたいところだが)様々に選択される装飾的なものでしかない。無論、装飾となるそれぞれの物語が高水準で描かれていることも『ガーゴイル』の魅力だが、異邦人を包み込む御色町の拡大機能が『ガーゴイル』の基本ルールであることを今一度強調しておきたい。ただし、このルールが支配的なのは身内のキャラクターを補充していく7話までだ。ならば以降はいかなるルールが支配しているのだろうか?
8話が転換点であり、メタコンテクストを孕んだ回であることは既に述べた。
9話は外敵のレイジが画面に初登場する。最終局面の前哨戦であり、10話も前述の通り同様だ。
では終盤11話より恋愛がモチーフになっているが、これは何故だろうか。
結論から言ってしまうと、「御色町の維持機能」の象徴的営為が恋愛だからだ。前半のルールが「拡大機能」であるならば、後半が「維持機能」になるのは自然と了解されると思う。御色町商店街とデパートの対立がレイジらによって御色町そのものの危機に取って代わり、これを防衛するストーリーと、和己と桃の淡い関係や吉永パパ・ママの恋情を想起させる関係回復の流れは一見相容れないが、町を構成する大部分が生物種のヒトであるからには、町の存続には交配という営みが必須であり、その初期衝動となる恋愛がモチーフに選択されたのは偶然ではない。
そんなバカな、現代的な物語素の中で最も一般的で共感しやすい恋愛をシメに持ってきただけではないのか、と聞こえてきそうだが、あくまでモチーフであって、我々は最終話で御色町の空に映し出されたパパとママの姿を思い出さなければならない。あれは単なる終結宣言ではない。これまでの話でメインにならなかった二人が消去法でラストに活躍したわけでもない。既に子を産み育ててきた二人が、かつて果たしきれなかったプロポーズのリボンを結び寄り添う姿が象徴するのは恋愛だけでなく、家族の情景である。また、二人の名前が明かされずに普遍性を付与されていることも忘れてはいけない。ラストシーンは「和己と桃」では務まらないし、ここにおいて『ガーゴイル』は、町や場の《精神性・特権性》を描こうとしながらも卑小な二者関係に退行し続けてきた幾多の作品(D.C./フタコイオルタナティヴ)を乗り越えている。
小学生には駆動させにくい恋愛要素が和己や両親に委譲されるのは論理的帰結に見えるが、もうおわかりの通り順序が逆で、双葉らが中学生や高校生であったなら恋愛の文脈に定位しようとする欲求はどうしても生まれてくる。これを抑制することで初めて『ガーゴイル』のテーマ選択性の高さは実現可能だし、可能とした田口仙年堂のキャラ配分能力は群を抜いている。
「物語はキャラクターしか描けない」とよく言われるが、実際は強度あるキャラが存在し、それらが複合的な運動を行って初めて物語のリアリティが保証されるのだ。
御色町商店街とデパートも、けして新旧の対立という狭い価値観で語られるのではなく、気負った演出なしに祭りというハレの場に収束させる手練も見事で、終わりにふさわしい。住人達はともかく、視聴者にとって御色町という舞台はもとよりコメディ劇が演じられるハレの場であり、錬金術という非日常の業が存在する空間だし、この空間の核となる神社の「桜の木の下で想いを告げると実現する」言い伝えは非日常性・フィクションのより共感を呼ぶ普遍的換言で、これを最終局面において顕在化させているわけだ。
このように物語が行われる場を特権化し、言及することで作品をまとめ上げる手法は珍しいものではない。特に、キャラ設定をデコラティブにしながら展開してきたエロゲー的想像力の作品群に頻出する超常設定(不老不死、死に神、幽霊、悪魔、魔法、超能力、etc)や、Key作品や『クロス†チャンネル』のような現代ファンタジーにおいて、世界観の穴となる超常性を知覚・検証が困難な『場』の水準へ押しやることである程度のリアリティを確保する形式で行われる。そのリアリティは形式のみに因るものではなく、精神性・抽象度の高いテーマを言語化しないまま描くときにも発揮されるが、本稿では扱わない。
少なくとも、錬金術があってガーゴイルがいて双葉たちがいる『ガーゴイル』の世界、御色町をめぐる祭りは、この形式にひとつの最適解を与え、完成している。原作者の田口仙年堂やシリーズ脚本の吉岡たかをがどこまで考えていたかは定かでないが、叙情的な風景描写に頼らず、動植物や像を含めた膨大なキャラクターのマスゲームに徹することで、共同体とゲニウス・ロキを描ききった『吉永さん家のガーゴイル』は傑作である。
