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タカハシマコ『冷たいお菓子』

タカハシマコVISUALコミック作品集「冷たいお菓子」
タカハシマコVISUALコミック作品集「冷たいお菓子」

いいから買え・・・・・・では終わってしまうので、タカハシマコが認知される一助となるべくくだを巻きます。

性的表現を含む。
商業活動は98年辺りから02年まではBLがメイン。02年の『女の子は特別教』(コアマガジン・絶版)からは男性向けにも執筆(正確には、短編集なので01年よりも前からだが)。主な掲載誌はCOMIC快楽天。『冷たいお菓子』(2004/08)・『水色ノート』(2005/07)はそれらの作品集。

BL時代の短編は24p作品が多いが、2002年からの男性向け作品は8pという短さに収められており、緊張感を獲得。情動の鋭利な描写が持ち味。


*絵柄
丸ペンと思われる細く危うい描線。造形は胴・手足が細長く、骨張っている。頭蓋のバランスは、顎から上瞼までが3:上瞼から頭頂までが5くらい。等身は5~6だが、胴の幅より頭蓋の直径の方が大きく、繊細な印象と相まって高く見える、けどどう見てもロリ。股の位置は全長の半分、しかしキャラが腰を折った途端に足だけ約2等身伸びるのも特徴。骨格の同一性より印象や高次のバランスが重視されているようだ。
ギャグなどの転調時には糸目になったり低等身化したりするが、少女漫画的。
少女漫画の系譜を汲んでいるが、そうはいっても何パターンもあるので、最近だと「ハチクロ」の絵柄を想像してもらえると良い。
本書は掲載時モノクロだったものを全ページカラー化。配色は淡い。コマ展開を考慮し、重要度の低いパーツや領域は白く残される。


*コマ割り
至って単純。殆ど矩形で構成されており、斜め切りは一篇につき一度あるかないか。
淡々と読みやすいが故に、しばしば冷酷さを醸し出す。
コマ線のないコマ・開領域を使ったコマが1ページに一度は出てくる。ページ単位の印象を和らげ、絵柄のイメージと適合させている。この開領域は場面転換に使われる場合が多い。各々のコマ内容だけで判断すれば交換不可能ではないが、ページ全体を見れば適切な位置に配置されている。


*演出
テーマ性はひとまずおいて、それを効果的に伝えるタカハシマコの方法意識を一言すると、
“日常と地続きな、雄弁な情景の抽出”
8pという短さながらも、主人公の少女らの来歴を想像させる下地を形成し得ている。これは強固な日常性、体験の普遍性に支えられている(お風呂、下校・寄り道、窓辺の少女、など)。脚本は、説明的・独り言過剰の嫌いはあるものの話し言葉にブラッシュアップされており、十分日常的で、次第に核心的となっていく。
『女の子は特別教』の作品群は情景の解釈を試みるべく不躾なモノローグで締められる傾向があったが、こと『冷たいお菓子』においては語らずして語り切っており、「状況の設定」を越え「情景の抽出」に値し、方法論は完成を見ている。事態の核心・ラストシーンがどれだけグロテスクであっても、日常と地続きに突きつけられたそれを我々は受けとめざるを得ない。かいまみる切断面の凄艶に酔え。

>『女の子は特別教』は未熟なりの歪み、構成の不備と過剰なダイアローグやモノローグの結託による自壊が発生し、ときに自己言及性・批評性に至っている。エントリーを改めて記したい。


*物語(※本項からはネタバレを含みます)
アマゾンカスタマーレビューで「百年の孤独」氏が本書の急所を端的に記されている。

“ストーリーは相変わらず全ロリコンを鬱に叩きこむ冷酷な話。例えば町田ひらくの描くマンガが、男性を性的搾取者と位置付け力強い加害者であると嘯き、読者の背徳感を煽ることによってエロを増幅させているのに較べて、彼女の描く男性は少女の無知や弱さにつけこんで快楽を剽窃する社会不適合者であるに過ぎず、憎むべき存在としては描かれていない。蔑みすらもなく、ただ災厄に見舞われた少女の姿が描かれ、災厄たる僕たちに対する諦めのため息が聞こえるのみである。僕たちは歪んでいて、彼女に憐れまれてすらいる存在なのだ。”

アマゾンなんて人目につくところにこの水準の言説がある以上、わざわざ僕が語るのも烏滸がましいのだが、気を取り直して続きます。あと「剽窃」は誤用じゃないかな。比喩と言われたらそれまでですが。

なんといっても少女達の男に向ける視線の無味乾燥が素晴らしい。僕等はまるで対等じゃない。
本書のみならず現在タカハシマコの最高傑作であろう『カチカチ』。諸氏には原典を味わって欲しいので詳細な解説は避けるが、父子家庭の娘「桜」が行きずりの男「小宮」に「――小宮さん   私のこと 食べたい――?」と放つ貌の冷徹さよ。見透かし、関係の唯一性を全く信じていないにも関わらず愛を希求するイロニー。随所でリンクし、テーマを広汎にしながら凝集する「カチカチ」の音韻。美味絶佳、これを8pでやられてはぐうの音も出ない。
褒誉はほどほどにして、描かれる男性像は一貫して子供じみ、身勝手で、無力である。
『あわあわ』のラスト、少年の義姉への呼びかけはけっして届くことはない。少女達が男を信頼することはあり得ず、気紛れに寄り添ってみるも求めているのは形無き亡霊。この冷酷さは男性への痛烈な批評だ。


*総評
“私の妄想なんですが『萌え』って「人扱いしない人でなしの心」と個人的に思ってるので、大変申し訳ない気持ちです。”
巻末の作品解説の言葉です。
対象人物の属性にフェチを見いだし倒錯し続けるのが、萌える基本姿勢だと思います。
男性向け成年コミックを描くにあたって近年『萌え』は避けて通れない概念で、これを作者なりに弁別した上で描くからこそ、ドライで芳醇な作品を生み得たのでしょう。『冷たいお菓子』の少女に僕等は否応なしに萌える。ガリガリに痩せていたり、性的虐待を受けたり、身体の欠損に萌える。美少女の身体的特徴(性格的特徴でもいいのだけれど)に無遠慮な視線を注ぎ続ける。
低次元な啓蒙になって申し訳ないが、一瞬で忘却される消費財だけでなく、オートマティックな消費行動を評価し目を覚まさせる作品も作られねばならない。視線の対象である女性の手で萌え批評となる作品が描かれたのはいいとして、男性からはどうだろう。
例えば山本雲居は、社会的・倫理的制裁を受けずに幼女をレイプできる設定を手を変え品を変えぶち上げる。精液を注がないと死んでしまう「膣涸れ病」が突如蔓延するとか、女性でなくとも怒り出すのを宥め得ない言語道断だ。けれどそれを自慰専用の良質なシチュエーション漫画としか読まない人を僕は信用しない。不潔で不愉快な漫画と切って捨てる人も、思考を手放さないで欲しい。山本雲居は登場人物を特殊な環境下におきながら女性の内面も男性の内省もあらゆる葛藤も徹底して排除し、レイプの行われつづける事態を刻々と描写する。この徹底性、即ち意図されたものは、行為者と被行為者への批評として読まれねばならない。「このキャラはかくも無法な行いに対し、どうして疑問を感じないのだろう?」、読者は自然と思うはずだ。ここにおいて山本雲居は、人間の意志決定におけるモデルの自明性を問うている(Ω Ω Ω<な、なんだってー!? )。
ここまで拡大解釈するのは誤読に違いないが、山本雲居作品の面白さが自明性の喪失に通じているのは、僕にとっては真実だ。作品内の不道徳極まりない数々の常識と局地的あるいは社会的通念、またそれを甘受する男達と女達。では道徳的であるとは?
萌え=男性原理への批評にしても、女性であるからアプリオリに弱者で被収奪者だ、という認識はそれこそ冒涜なのだ。宿命的な弱者と言わなくとも、女性性に無根拠な特権を読み取るスキームは確かに存在しているし、また男性性も同様だ。
この文脈において、僕は流行の萌え『女装』に期待している(ホントだよ~~)。女性的身体は萌えの前提条件だが、「穢らわしきY染色体を持つ」我々にとって女装という幻想充足的行為は不可能性への企投なのだ。女性的身体という幻想を搾取しつつも憧憬する我々は、同一化の企てによって内省を迫られねばなるまい。
女装ギャルゲーのエポックメイカー『処女はお姉さまに恋してる』は、如何に女になりきるか・バレたらどうしよう・慕ってくれてる女の子にバレちゃったよどうしよう、という塩梅で女装の醍醐味を適度に入れつつエンターテインメントした佳作なんだけど、不可能性だとか超越的なものには一切累が及ばない(だって天然な瑞穂きゅん見てても“こんな可愛い子が女の子のはずがない!”としか言えないでしょ?)。『はぴねす』の渡良瀬準は天無二日のヴィジュアルで、見るだけでどんな朴念仁でも実存(女性的身体)が本質に先立つって悟っちゃうんだけど、本質には踏み込んでくれない。
そこで『ゆびさきミルクティー』(宮野ともちか)ですよ!!
主人公の池田由紀は第二次性徴をきっかけに、大切にしたいと思ってる幼なじみの森居左を傷つける主体になろうとしていることに気づく。アイデンティティークライシスに揺れながら女装に没頭していく。理解者でありフラグも立ちっぱなしの黒川水面に自分のウィッグをつけてもらおうとして(なんたる身勝手!自己愛!)憤然拒絶されたり、近頃は素でも女の仕草が出ちゃって親友・高槻亘をときめかせたりと無体が過ぎるが、それでも彼は自己の性を見つめるところから出発しているのだ。宮野ともちかの瑞々しい描線、魅力的な表情、ばかげて真摯な言葉、あざとかろうと突き進む比類無き演出はいつか、我々の抱える諸問題を切り刻み足蹴にしてくれるだろう。
その運動が終焉を迎えたとき参加者が振り返ったならば、身体と精神は新たな見地に届いているはずである。



『冷たいお菓子』の少女。彼女らの視線は男を通り過ぎ、愛の亡霊を見ている。それは萌えと似て非なる視線で、断片たる属性ではなく相互理解を始めとした不可能性へのロマンに根ざしている。
いつか手にしたい愛を見つめる『冷たいお菓子=冷酷な少女』は、美味しい。