『STUDIO VOICE』 2006年9月号
「特集 現在進行形コミック・ガイド」ということで買って参りました。
連載中の漫画が60程紹介されていますが、『デトロイト・メタル・シティ』を除いてどれ一つきちんと読んでいないので追試はできません。漫画に限ったことではありませんが供給量が半端ないので、複数人が包括的に書評してくるのはありがたいです。
『デトロイト・メタル・シティ』は何ら新しくないけど、確かに面白い。本当はスウェディッシュ・ポップがやりたいけどやむにやまれず「SATSUGAIせよ」と叫んじゃうデスメタラーな主人公が憎めない。
絵は特に巧くはなくて空間構成も適当なんだけど、キャラが良い感じに画面から浮いてて極端にわかりやすい。平均的容貌からイカレた表情をぶっ放す落差もギャグ漫画らしい。作品内雑誌「アモアム」誌面で、DMCだけでなく「鬼刃」(ヒップホップ)、「金玉ガールズ」(パンク)などが紹介されていたり、小ネタで世界を広げているのも巧い。
KISS的メイクに類する過剰性が直ちにギャグになる現状で、まじめに(制作態度が)過剰なことをやってるのは好感が持てます。日本はメタルファンが多いのに、扱った作品もそういやなかったか。いや知らんけど。
*Scool of Entertainment/神山健治の『映画は撮ったことがない』
スタジオヴォイスを読んで気になったのはこのコーナー。神山氏は『人狼』演出や『攻殻S.A.C.』監督・シリーズ構成の方。
副題は<Lesson5/「良い脚本」とはなにか? その2~「構造」を獲得する>。
押井守が「構造なき脚本はただのストーリーに過ぎず、演出段階でそれを獲得することなど、これまた困難の極みである」と脅すように、脚本は行間に構造を構築しなければならない。たとえば『ルパン三世 カリオストロの城』で、ルパンが美女に弱いのは観客も承知している「設定」で、ストーリーを展開させるための「構成」に過ぎないが、ルパンとクラリスの間に用意された――ルパンが昔クラリスに命を救われた――「過去」のエピソードを「劇中の特定の人物と観客しか知り得ない秘密」とした場合にのみ、只の「設定」が「構造」になる。「構造」とは観客とスクリーンないし特定の登場人物の間に築かれる共犯関係といえる。ただし、「演出段階で獲得された構造」も存在して、低予算映画らしいコメディー・スリラーなどの身近な出来事を別口から切り取った作品にまま見受けられる、これを「誤解による展開」と名付けたい。次号へ。
以上が主旨。
私は拙い漫画をひりだしたり、友人の小説の推敲や構成を手伝う関係で似たようなことを考えるのだけれど、この「構造」を個人的には「内的必然性」とか「文脈規定」と呼んでいる。女好きのルパンが美女と出会い、モチベーションを得て物語にコミットしていく基本構成に、ルパンと美女クラリスの因果が与えられると(登場人物が自覚しているかどうかは関係なく)、ルパンは過去・人格を獲得し、恩返しという文脈を孕みながらクラリスを救おうとする。その行動は彼にとっても観客にとっても必然である。作品に通底する文脈が見いだされれば、観客の読みのガイドとなり、そこにおいて作品内の「出来事」は説得力を持ち「物語」もしくはそれ以上に昇格する。
「構造」の実態を見ていくと、視聴者・読者の読解を意識したメタレベルでの関連づけというひとつの側面が現れる。これを押し進め、結局設定水準にしてきたのが構成小説であるミステリーで、登場人物の名前による人格規定やアナグラムによるネタの暗示等、強引な関連づけには枚挙の暇がない。現在、ミステリーに限らずメタリレイションはよく見られるが、ゲーム的リアリズムが市民権を得てきたことと無関係ではない(バトルロワイヤルや山田悠介などのデスゲーム作品を見よ)。そのような作品においては、種をまかれながらも読み取られるに任せていた「文脈」が、明示されたルールにとってかわられている。だからデスゲーム系は偽物だ、というわけではなく、山田悠介はルールで遊んでいるだけだから偽物だけど、バトロワは根源となるBR法が「グロテスクな社会制度」という批評性が見いだせて意義があるから翻って「内的必然性」に至っているから本物だろうと。
ゲーム的構成もガジェットのひとつとして回収されたりサブジャンル化していって、じゃあなにも変わってないじゃん、安易な関連づけで「構造」を獲得できないのは今も昔も変わらないね、とは思うけど一段階経た昨今は別の無化効果が働いている気がします。でもよく考えてません。
つうわけで場つなぎエントリーでした。

