森見登美彦『太陽の塔』

森見登美彦『太陽の塔』(2003,新潮社)
諧謔文体が面白いです。説明不能の幻想的要素に感じる処女作の熱気もよい。
主人公は京大農学部5回生で、休学中の身。モテない男である。かつてつきあっていた水尾さんに影からつきまとい、それを「水尾さん研究」と言い張るところから物語は始まる。
同じようにモテない個性的な友人との、突飛で少し不思議だが、どこかありえそうな大学生活(行ってない)がメイン。
*風景について
森見は固有名詞つきの街を描く作家であり、そこでは登場人物たちが出会ってはなにかろくでもないことをしている。「太陽の塔」というランドマークへの愛着が代表するように、異物の集合として街を描いているように思う。俗に言う、「表情のある」風景を描いているというよりは、風景はいつも無愛想だ。そしてもっとも無愛想な風景が「太陽の塔」である。
物語をやるには人物と場が必要で、そのためになにか印象深い風景を描きたくても、小説は文字で逐一伝えるしかないので、自然と注意したものを取り上げていくことになる。このとき「異物」を使うと効率がいいことに気づく。固有性は差異でしか描けない。しかしそのうち「異物」というのはもっと面白いものだと気づく。シーンや世界を演出するための異物が、いつの間にか目的になっていく。だいたいそういうことなんじゃないかと思うのだが、まあこれは妄想である。
*「ええじゃないか騒動」と嫌恋愛
四条河原町に巻き起こる「ええじゃないか騒動」は痛快。主人公が「ええわけがない」と返すのがよい。
この「ええじゃないか」はクリスマスという恋愛至上主義的イベントへの反抗として企画される。
日本人は目下の処恋愛病にかかっているという考え方は目新しくない。モテない青年が、「ていうかなんで恋愛しなきゃならんのさ」と素にかえって周りが猿に見えるのは普通のことだ。でもそんなこといわれてもなぁ――娯楽でもあるし、人生設計のあしがかりでもあるし、体験としても上等な部類なんですよ、恋愛は――というのが益体のないマジレス。そのように反論できるからといって本書の立場ひるがえって本書そのものに価値がないと言いたいわけではけしてない。
森見さんは最近人気が出てきているようだが、ぶっちゃけそれほど面白いとは思えなくて、ボキャブラリーの豊富さや、一歩引いた眼差しの真っ当さとか、美点は多々あると思うのだが、どうにもありがたがれないのである。軽やかなのはいいが、安心してるんじゃないのと思うのだ。肝心なところをはぐらかされているような。
もちろんその手応えのなさは本人の演出であり、素でもあるのだが。
*幻想の出逢い
同作家の『四畳半神話体系』(2004)も既読で、「随分と都合良く人物に出会うなぁ」という印象を『太陽の塔』と共に持った。重要な助言をしてくれる占い師に出会ったり、何の因果か追われて袋小路に来たところで、喧嘩中の人物に出会って助けられたりするのである。
フィクションなんてものは人が人と出会わないと話にならないのだが、普通はもうちょっと必然性のある出逢い方をさせるなり、自然な流れを装うものである。だがこの作者は「無理して装うことはないんじゃない?」という考えのもとに書いているのがわかる。「アリだなぁ」と僕は思った。
その出逢い方が妙である。偶然の場合が多いようだが、どこかしら運命的で、必然とも感じられるようにできている。例えば『太陽の塔』において、「夢の中」での人との出逢い方と、現実世界での出逢い方は似ている。むしろ夢に現実が似ている。街を歩いているうちに、どういうわけか出会ってしまうのである。現実と幻想は地続きになっている。文学評論のタームを出せば、マジックリアリズムというやつである。
「出逢い」が森見先生のキーワードだな、と思ってふとご本人のサイトを見ると、『夜は短し歩けよ乙女』の紹介においての引用を見てなるほどと思う。
私はなるべく彼女の目にとまるよう心がけてきた。吉田神社で、出町柳駅で、百万遍交差点で、銀閣寺で、哲学の道で、「偶然の」出逢いは頻発した。我ながらあからさまに怪しいのである。そんなにあらゆる街角に、俺が立っているはずがない。「ま、たまたま通りかかったもんだから」という台詞を喉から血が出るほど繰り返す私に、彼女は天真爛漫な笑みをもって応え続けた。「あ!先輩、奇遇ですねえ!」
300ページ近くある文章から抜粋されたのは、「偶然の出逢い」について濃縮されたもの。
さて、この一致は偶然だろうか?
