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2007年07月30日

今月の消化

最近読んだり見たものをまとめて。
覚え書き程度の感想です。


中島らも『僕に踏まれた街と僕が踏んだ街(増補版)』
約10年ぶりの再読。すいすい読める。
60年代に少年期を生きた作家といえば、村上龍や春樹がめぼしい。龍の『69』の伝える空気とこの本の最初の半分が伝える空気は同じものだ。彼らは言いしれぬ怒りを抱えている、という印象でそれと比して僕等の世代は怒りはそうでもない、と今まで思っていたのだけれど、あんまり自信がなくなってきた。らも先生は怒りがどうとかいう次元を越えちゃってる。


サリンジャー『ナイン・ストーリーズ』
殆どの短編が、なんだかよくわからないままに終わってしまう。しかし気になる。つまり面白い。けどどうにも信じ切れない。
サリンジャーは「いつもたいてい非常に若い人たちのことを書いている」と言ったそうで、それはやっぱり正しいように思う。
「非常に若い人たち」のことを、「こんな世の中インチキだ」と気づいてしまう心性の持ち主で、またそれに伴う怒りやもどかしさをもてあましつづけてしまう、そういう人たちと読み替えるなら、だいたいの短編には当てはまっているようだ。
いちばん理解に苦しんだのは「愛らしき口もと目は緑」だ。
登場人物はベッドにいる男と女、そして男に電話してきた受話器越しの男。彼は妻の浮気を疑う夫だ。
短編の筋立てに心得があるなら、ベッドの女は夫の妻かと疑う。お約束である。ラスト数ページまではそのように読んでもボロが出ないようになっている。しかし終盤、夫は「妻が帰ってきた」という。それを信じるとするなら、男がそれを告げられた途端に電話を切りたくなり、うちひしがれたような様子をする理由がよくわからないことになる。男は今晩の妻についていくらかのことを知っていたが、夫から最後聞かされたことがなにかしら意外だったのだろう。
野暮なのだ。よくできた人物の入れ替わりも盲点もここにはない。サリンジャーがそういう出来合いを拒否するのは当たり前の話だ。


涼元悠一『ナハトイェーガー ~菩提樹荘の闇狩姫~』
構成が練られていないように思う。シーンの役割がしばしば強引に切り替えられる。
以下、敬愛する百合の大家・中里一氏の2006年12月18日より引用↓

 常人の主人公(女子高校生)が、物の怪らしき幼女に愛される話である。  造作は凝っているが、根本的なことがなにも起こらない。  「ホモ」や「ゲイ」の同義語として「やおい」や「BL」という言葉を使うBLを、私は知らない。百合はBLに相当する言葉なので、登場人物が「百合」という言葉を使うべきではない。ナラティブやフィクションに関する意識において、男性文化は女性文化より30年は遅れている。

「百合」をはやし立てる周囲の女子高生らの無邪気さや"趣味"は好ましいが(なにしろ舞台の高校はかつては女子校だ)、彼女らが「百合」と口にすることで、本来この作家が目指すべきリアリティからはずれていってしまうように思う。
「百合」と書かれるのは、いつも学園コメディタッチのシーンである。いってみれば祭りでありVIPでありネタでありベタであり、ギャルゲー的日常である。たしかにそれらは文学的美意識とはほど遠い、スノビスムの支配する領域だ。ギャルゲー畑の作者の、象徴的事態が出来したと考えていいだろう。
若い人のテクストを読んでいると、「それをそのまま書いちゃうの?」と呆れることがよくある。登場人物の美しい女性を「美しい」と形容し、彼女が凄みを見せれば「怖ろしい」と書く。基本の形容でこの有様なのだから、あとは推して知るべし。こういう不調法は、たしかに男性のほうが惨憺たるものがある。


映画 サム・ライミ『スパイダーマン』
キュートな映画だ。
日本人にうけるのはうなずける。
サム・ライミは『死霊のはらわた3』だけを見たことがある。狂気じみたご都合主義が持ち味だと思い、今回もそれを期待するところがあったのだが、さすがにメジャー映画なのではっちゃけ度は物足りなかった。


映画 スティーヴン・スピルバーグ『プライベート・ライアン』
噂通りに戦闘シーンが圧巻。
生き残り、「しっかり生きる」ことを約束したライアン。老年の彼が犠牲となった隊長の墓参りをするプロローグとエピローグに大戦時の本編が挟まれている。
やはり私には絵に描いたようなヒューマニズムが合わない。ストレートすぎ、論理階梯がショートしているように感じてしまう。
そういう意味でスピルバーグはいつも肝心なところをはぐらかし、エンターテインメントへ走ってしまうと感じる。良くも悪くもプロフェッショナルだと思う。
しかし良い映画であることは間違いない。フォローではなく、心底そう思う。


映画 ロニー・ユー『SPIRIT』
ジェット・リー主演、中村獅童共演。
よく出来ている。思う存分楽しめた。クンフーアクション映画の鑑と言っても、そんなに言い過ぎではないと思う。


映画 スタンリー・キューブリック『シャイニング』
1980年の映画。
ホラー映画の祖らしい。
感嘆したが、結構だるかった。万全の体調で、部屋を暗くして見るべき映画だ。日が悪かった。


映画 スタンリー・キューブリック『時計じかけのオレンジ』
1971年の映画。
素晴らしい。本当に面白かった。
"悪しき"人間性の話、と受け取るとひとまず腑に落ちた。
まだまだいろんな誤読ができそうで(傑作の条件)、それが楽しみだ。
目の背けたくなるような、胸くその悪い、悪趣味で残虐非道な行いが連発される。「火力」の大盤振る舞い。勘弁してくれと思う。未曾有の火力密度で、常人の所業ではない。キューブリック万歳。


映画 ラース・フォン・トリアー『ダンサー・イン・ザ・ダーク』
2000年カンヌ国際映画祭・パルムドール・主演女優賞受賞作。
序盤はだるいが、ミュージカルが始まった瞬間脳髄が叩き起こされた。
「ドグマ95」という映画製作の原則にある程度忠実に撮っているらしい。それが成功している。編集やレタッチバリバリの画づくりに慣れた我々は、却ってこういった無造作な画にすごみを感じる。なんだかドキュメンタリーみたいに見え、自分がそこに立ち会っているようだ。
それと、ビョークは背が低いしあの顔立ちだから母親に見えないw 途中まで姉弟だと思ってた。


映画 ラース・フォン・トリアー『ドッグヴィル』
トーンを抑制しつつも露骨な、文芸的な態度が鼻につくが、でも素晴らしいと思う。
セットが規格外。おかげでぎゅぎゅいと締まっている。そこは観てのお楽しみ。
ニコール・キッドマンが大変エライ目にあう。逃亡先のこの世の果てのような寒村で仕事をし、信頼を得ていくが・・・・・・
観念的道徳ひいては理性の無力さ、赦しの話、とひとまず受け取った。


映画 ラース・フォン・トリアー『マンダレイ』
『ドッグヴィル』の続編。「アメリカ合衆国 - 機会の土地」三部作の2作目。
前作ほどは引き込まれなかった。原因は「主演が変わったこと。ニコール・キッドマンが見たいよ!」「セットのあり方は前と同じだが、規模が大きくなり、閉所の緊張感が減ったこと」「同様に規模が大きくなり、土地全体がカメラに入りきらないために、神の視座にいるような把握感がない。相対的に視野が狭くなるために、付帯的なからみあいを見られる機会が減っていること」。
最後の畳み方が良くできていて、感心すると同時に詐術めいており、少し萎えた。私が読み取れていない可能性が高いが、上手な構成にとどまっている気がする。
テーマ面については、前作ほどは広がりがない印象を受ける。黒人問題という文脈が存在し、そこに観客がフォーカスしやすいのが原因だ。おおざっぱに言えば自由の話。

2007年07月27日

祝!『リトルバスターズ!』発売

リトルバスターズ!
 諸君。喜んで欲しい。
 今日はKeyの新作『リトルバスターズ!』の発売日である。
 Keyは、私にとって最も特権的なナラティヴの送り手である。
 私は彼らにギャルゲーの可能性を見続ける者である。
 『ONE』から一貫して、彼らの作品の前半はスラップスティックの日常で占められている。ギャルゲー的日常である。それは終焉を約束された日常だ。日常は破壊されうる。家庭の事情、天災(地震雷火事親父)、人災(強盗強姦殺人戦争)、その他諸々の外圧、そして時の流れ。日常は所与のものではない。日常とは本来、そういった脆さを備えている。
 その脆さをあざ笑うかのように/祝福するように、Keyの作品は必ず日常を破壊する。超越的な、不可視の力によって破壊する。だからこそ日常に意義を与えうる。
 私はギャルゲーを好むが、ある時期からお気楽で愉快な日常パートを読むのが耐え難くなった。何一つ愉快でなくなった。それらの幸せで輝かしい日常は、作品内部において所与のものでしかなかったからだ。それらの根拠はジャンルに“しか”なかった。そのようなテクストは、系の内部においては一つの解釈しかうまない。すらすら意味がわかり、またそれ以外の意味を持たないテクストの何が面白いのか。
 日常が所与のものでないことを示すには、破壊するか、既に終わっていたことにするかのどちらかだ。
 既に終わっていた作品には、例えば『CROSS†CHANNEL』がある。日常を回復しようと試み、失敗する話だ。なぜ失敗しなければならなかったのか。それは既に終わったからだ、と答えよう。
 既に終わっていた作品をもっと巧妙にすると、終わりの内在された物語になる。実際のところ、これが普通の物語である。

 破壊の話をしよう。
 日常を終わらせるだけなら誰にでもできる。ヒロインと恋仲になればいい。ハッピーエンドだ。そこから始まる物語を放棄するなら、一丁上がりだ。幸せで結構だが、あまり面白くはなさそうだ。
 そこでKeyである。
 Keyは日常を、完膚無きまでに破壊してみせる。それも理解不能な方法でだ。無根拠な力で、時には伏線さえはらずに。だから人はその理由を作品の内外に求める。そこに誤読の余地がある。それは紛れもなく、豊かさの契機だ。だから、Keyのこの手法への拘泥を私は肯定する。キャラクターとの日常を手放せないギャルゲーだからこそ、彼らの残酷さが必要だ。
 しかし同時に危惧もしている。
 『AIR』の時点で、Keyはひとまずその歴史的使命を終えた感がある。Keyは生まれ変わる必要がありそうだ。事実そうなりつつある、が路線変更ならいらない。Keyの本質、私が情熱の眼差しを注ぐあれこれに根ざした、発達的変容であって欲しい。それはとても困難な道だ。『ONE』の形式的完結を越えることなぞ、到底できそうにない。それでも・・・・・・
 『CLANNAD』の破壊は、渚のいたって現実的な死によって行われた。破壊にもヴァリエーションを作らざるをえないから、それはいい。各キャラシナリオにおける破壊も、同様にそれぞれの現実的な都合によって行われた。凡庸のきらいがあるが、これが『CLANNAD』の構造であり、認めるものだ。
 だが、「幻想世界」と「街の意志」はどう処理されたか。人々の願いや想いを受けとめる「街の意志」が明らかに軸だった。その周りで、「幻想世界」は根源的な機能を果たさず、全く静止していた。尾てい骨でしかなかった。では排除すればよかったというと、そうでもなかった。できたらやっていたに決まっている。Keyはそれほど愚かではない。「街の意志」という超現実的な力場は、渚の復活という現実的な力をふるった。はっきりと言おう。そのためだけにあった。これは予め決められた失敗だ。祈ったことをそのまま叶えてくれる神は、神ではない。それは悪魔だ。もちろん、渚の復活の影にはいくつもの見過ごされた願いがあったろうから、この悪魔崇拝は希釈されている。しかし、シナリオライターはその臭いを無視できなかった。別の香りでごまかす必要があった。そのための「幻想世界」なのだ。「幻想世界」は孤独な、取り残された、取引のない世界だ。これを「街の意志」と相克させることはかなわなかったが、その存在がかろうじて『CLANNAD』を人間の領域に、価値ある領域にとどめていた。
 『智代アフター』はどうだろう。
 『智代アフター』の破壊に、伏線はなかった。主人公に訪れた、あの呆れるほど唐突な破壊。誰もが「(゚Д゚)ハァ?」となるあの破壊。確かに言語道断だろう。どう受け取っていいか態度を決めかねるどころか、「なかったこと」になっているか、「『ONE』で似たことをやっていた、卑怯な形でお家芸を出された、仕方ないな」というところで落ち着いているのだろう。
 しかしである。
 ちょっと検索してみたのだけれど、誰も言っていないようだし、ここできちんと言っておく。
 『智代アフター』のOP後、主人公が部屋に戻ると「とも」がいる。隠し子がどうのと一応理由付けはあるが、なし崩しにというか強引にというか、とにかく「とも」を娘として迎え、生活していくことになる。この展開も「(゚Д゚)ハァ?」な印象を与えるものだ。もちろん『智代アフター』(の大半)はそういう物語だ。「とも」を受け入れ、現実的な困難と折り合いながら、いずれは元の鞘へ還していく物語だ。だが、その導入はあまりに“唐突”なものだ。主人公の破壊も“唐突”だった。この重要な、作品にとって最も根源的な「突然の邂逅」によって作品の最初と最後が始まっていることを見逃してはならない。この一致は必然である。この構造的一致に比べれば、ストーリーから引き出せるいくつかのテーマなど、どうということはない。「永遠に続く愛はある」ことを証明するために、主人公や智代は執拗な、正に狂気の領域にある努力と継続を見せ続ける。しかしそれは運命のいたずら、「突然の邂逅」によって物理的・実際的には断念されるのだ。「運命には抗えない。現実とはそういうものだ。しかし諦めない姿は尊く美しい」ということを教えてもらって面白いかというとそうでもないが、少なくとも『智代アフター』の「突然の邂逅」と「意志の力(努力と継続)」の二重奏は、十分強固で徹底されている。この徹底性に私は感嘆を禁じえない。


 さて。『リトバス』である。
 以上を踏まえて、『リトバス』への期待をいくつか。

・棗鈴たんに「めっ!」ってされたいっ!!
・クドに「わふー」ってされたいっ!!

 というのも全くの本音であるが、真面目な話、麻枝准が担当する棗鈴シナリオ、そしてツートップのもう片方、神北小毬シナリオ(こちらは都乃河勇人担当)。この二つがどのような対の構成を見せてくれるかだ。
 タイトルの「リトルバスターズ」は、主人公ら男性陣と棗鈴が幼い頃に結成した悪ガキ愚連隊からくる。つまり、「過去」が用意されている。この過去は、なにか幻想的な、例えば夢のような経路によって「現在」を“包んでいる”はずだ。その中心にあるのは主人公と棗鈴であり、二人がかつて偶然に交わした超越的な何かだろう。そしておそらく、大切なもの(例えば他のヒロイン達)を断念していく話になるのではないか、と思っている。CLANNADも智代アフターも諦めない話だった。リトバスでは諦める話を見たい。
 棗鈴と対になる神北小毬は、「現在」を代表するキャラだろう。彼女の特権性と棗のそれは対立してくれるはずだ。今までもKeyの作品には対となるヒロインたちがいた。栞と香里、美凪とみちる。しかしそれらには主従の別があった。栞や美凪が主だ。そして、実はそれらの関係性の間に主人公はいなかった。今回はいるか、いようとしてくれるか。
 対といえば先述の「突然の邂逅」と「意志の力」のように、作品の根源に関わる「超越的なもの」と「キャラクター・人間の水準」もそうだ。これも「超越的なもの」が主だ。今回はそういった力関係の差をなくしたものが見たい。「超越的なもの」同士の戦いだ。人間を包んでいる、人間の業に根ざした、超越的なもの同士の戦いだ。
 あまりろくなことは書けなかったが、これが『リトバス』への期待だ。


 リトバス発売の祝辞の割にはいささか長く脱線したようだが、これが私からの精一杯の声援である。
 『この街と、住人に幸あれ。』

2007年07月26日

桜庭一樹『青年のための読書クラブ』【その一】

青年のための読書クラブ
 桜庭の新刊がいつの間にやら出ていた。
 『青年のための読書クラブ』。贔屓目だが傑作。
 桜庭は完全に脱皮した。推定少女や砂糖菓子が一度目の脱皮であった。今回は二度目だ。
 二度目の脱皮を遂げられる作家は一握りだ。桜庭はやり遂げた。万歳、万歳、万歳。
 文章に滑稽味を出すのは、とても難しい。滑稽とは上品な笑いである。笑いは難しい。滑稽はもっと難しい。『青読』はそれができている。
 詳しいことその他諸々は日を改めて書く。


 今日は初めて日記を書こうと思う。
 昨日夕方、本屋に寄ると『青年のための読書クラブ』があった。
 桜庭を偏愛している私は、当然見つけた瞬間手に取り、いそいそとレジへ向かった。
 所用を片付け、終電で貪るように一章を読み終え、あまりの面白さに感涙を浮かべつつ、祝杯のためにコンビニでリキュールを買い、我が家へ帰り、また貪るように読み、読み終えた。夜は明けかけていた。
 興奮冷めやらぬままwikipediaで「桜庭一樹」を検索した(これは習慣なのだが、素晴らしい作品に出会ったあとは、作り手のあらましをその都度確認するのだ)。
 するとなんということだろう、本日7月26日が桜庭一樹の誕生日であった。呆然としつつも、やはりこれは運命だ。ファム・ファタールだ。

 桜庭との出逢いもまた運命であった。なにか新しい本が読みたくて、とらのあなでラノベの新刊を見ていると『推定少女』が目にとまった。「推定少女」である。甘くて苦い、抗えない語感だ。どこかが壊れてしまったような繊細なタッチのジャケは、かねてよりファンである高野音彦だ。

「俺は絶対にこの小説を好きになる」

 いそいそとレジへ向かった。読み始めれば手が止まらなかった。「ここにいたのか! 俺はお前を知っていたぞ!」そう呼びかけながら読んだ。
 次作、出世作でもある『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』も同じだった。「やはりここにいたのか!!」
 二度続けばもう虜になるしかない。既刊は殆ど集めた。知る限りの本屋・古本屋を巡り、巡り続けた。期待と失望と欣喜雀躍「サ行」巡りである。

 あれから3年近くが経とうとしている。
 一度は御尊顔を拝さねばと、桜庭がゲストだったSFセミナーのためにわざわざ東京に行った。友人の頼みで表紙を描いた某SF研の冊子がさるイベントで桜庭本人に直接進呈されたと聞いたときは「俺の描いた絵を桜庭が見た! もう死んでもいい。つか本当に死ぬんじゃないか」と悶えた。
 そこそこ売れているようだし、タカハシマコ『乙女ケーキ』の帯推薦文を桜庭が書いていたり、どうやら時代は私の感性をキャッチしてくれている。
 何より『青年のための読書クラブ』で見せた脱皮は、これからの10年20年を生き抜いていくものだ。こんなに嬉しいことはない。
"Happy Birthday & Glory to you!"

2007年07月25日

友桐夏『白い花の舞い散る時間』

白い花の舞い散る時間春待ちの姫君たち盤上の四重奏
友桐夏、リリカルミステリーシリーズ「白い花の舞い散る時間」「春待ちの姫君たち」「盤上の四重奏」(コバルト文庫)

 タイトルとイラストから百合電波が出ていたので読んだ。
 中身はというと、百合ではなかった。しかし近年気にしつつも私自身整理のついていない、ある傾向を顕著に有していた。それはライトノベルや若手作家の書く物語にしばしば見られる傾向だ。『蹴りたい背中』もそうだった。
 今回はそれを扱う。


 まずは参考程度に『白い花の舞い散る時間』のあらすじを紹介しよう。
 これは、同じ塾のチャットルームのメンバーが洋館に合宿して誰がどのHNの人かを各々推理する、という文脈から始まる小説だが、次第にメンバーにミッシングリンク(隠された共通項)があることがわかり、実は合宿以前のチャットのときから「集められていた」という陰謀めいた話になる。その背後にはカルト的な教団がある。正体不明、目的不明の組織が影を落とし、その影響下に浮遊した言語空間が展開される。

 本題に移る。
 問題の傾向とは次のようなものだ。
・対人関係をモデル化しすぎる。例えば「敵/味方」にはっきりと分けたがる。
・コミュニケーションにおける「駆け引き」の側面を強調しすぎる。むしろ駆け引きのみでコミュニケーションしようとする。主人公だけでなく、周囲の人々の多くも同様のプロトコルを所与のものとしている。
・出し抜けに家族第一主義な発言をする。家族を自分にとって特権的なものと主張したがる。

 似た傾向を持つ作家には佐藤友哉がいる。友桐夏を読んでいると、佐藤友哉と乙一を思い出した。乙一の抑制を佐藤友哉に利かせたような小説だと思った。悪意とナイーブさのある小説なのだ。しかし佐藤友哉ほどには頼もしくない。佐藤友哉の小説に登場する人物の自我はきわめて弱々しいが、小説としては頼もしい。佐藤友哉の小説と友桐夏の小説の決定的な違いを上述の傾向に即していえば、

・友桐夏の登場人物達には、みな一様に「敵/味方」や「出し抜く/出し抜かれる」のプロトコルが組み込まれており、それしかない。対立する者同士のコミュニケーションはちょうど平行線のように交わらず、不毛だ。
・佐藤友哉の登場人物達のプロトコルは似ているようで異質だ。彼ら彼女らは決定的にすれ違っている。対話が良好に成立しているように見えても、根源的なところでは交差さえしていない。しかし、そのすれ違いの原因は各人の“ずれ”のみに拠っていない。もっと高次元の、場のいたずらが働いている。

 友桐夏のコミュニケーション空間をユークリッド幾何学に例えるなら、佐藤友哉のそれは非ユークリッド幾何学的だ。友桐夏の平行線は永遠に交わらないが、佐藤友哉のそれは何かのはずみで交わる。その奇跡の瞬間があるから、佐藤友哉は面白い。
 この差異は例えば「自己嫌悪」の欠如として、登場人物個人の資質にあらわれる。
 友桐夏の登場人物は、自己省察はする。しかし、発揮される洞察力は基本的には他者を攻撃するためのものだ。後悔でさえも「なぜあのときもっと巧く立ち回って、あいつを出し抜けなかったのか。私はもっと冷血にならなければ」といった形でなされる。
 そこには他者にそそがれる愛がない。眼差しは愛を希求せず、拒絶や見透かしに躍起になっている。他者は利用するものでしかなく、私を傷つける不快なものとして捉えられている。これは不快な世界像だが、そのような世界像の物語が書かれねばならなかった理由はどこにあるのか。
 身も蓋もないことを言えば、他者を認めるわけにはいかなかったのだ。認めた瞬間に小説が終わってしまう。リリカルミステリーシリーズにおいては、ミステリーの枠組みを取っ払ってしまえば、“平行線”を見せ続ける以外に筋が残っていない。各人が各人の規範に基づき続けること、敵が敵であり続けることでかろうじて成立している。叙述トリックや正体不明な“空気”としての組織や換喩的固有名詞などによって幾重にも偽装されてはいるが、ストーリーを生成する根拠となっているのは、キャラクターの静止した位置関係でしかない。
 これはとても臆病なあり方だ。デザインされたキャラクターが、その自我をわずかとも揺るがされることなくあり続ける。随分と哀しい生き方を選択したものだ。
 この痛切な臆病さが、歪なコミュニケーション空間を持つ物語たちの根っこにある。
 では、一体何が我々を臆病たらしめているのか。
 この文章を書き始めるまでは「整理がついていない」としていたが、途中で答えを既に知っていたことに気づいて、自分の呆れるほどの鈍さを歯痒く思った。
 『今や日常生活世界が戦場という非日常を内包しているのだ』
 虚構化された不快な世界像は、戦争を内在した日常世界の正確な反映だった。
 だから、彼ら彼女らの小説がしばしば出し抜けに家族信仰を見せる理由も自明のものとなる。
 それはもはや存在しない非戦地帯の影であり、抵抗にもならない憧憬なのだ。こんな馬鹿馬鹿しい正体も見抜けないまま読み進めていたとは!

「くだらないわね。そんなこと教えてもらったって何の役にもたたないわ。その女と共瞑会とのかかわりも、あたしと亜梨栖が取り替えられることになった経緯も、あんたがどうして伶沙の弟として彼女たちと一緒に暮らしていたのかも、あたしには本当にどうだっていいの。ひとつ目の質問は、あたしの両親を交通事故に見せかけて殺したのは誰なのかということ」 ――白い花の舞い散る時間,269p

 宵子か。
 深月は苦いものを噛んだ気分になった。
 直接それを命令したわけではないだろうけど、でも彼女という存在があったせいであの二人が亡くなったのだとしたら、あたしはあの子を赦せないな。 ――同,271p

2007年07月23日

『王立宇宙軍~オネアミスの翼』

王立宇宙軍 オネアミスの翼
山賀博之『王立宇宙軍~オネアミスの翼』(1987,GAINAX)

 ストーリーを追うのが快楽な、そういう普通の作品ではない。アクションの快楽を追う作品でもない。すなわち漫然と観て楽しいエンターテインメントではない。
 けれども別種の体験を味わえる。
 この作品には世界がある。映画が始まる前・終わった後にも続いている世界が"既に"ある。

 これは当たり前のことではない。
 物語には登場人物と舞台=世界、どちらも必要である。それらを欠いた物語は想像すらできない。だから暗黙の了解として、作品内部に存在し続けるであろう世界を想定し、関連づけながら観客は視聴する。作品内部には世界があることになっている。世界の連続性を担保として、物語という連続性が認められる。
 『ドラえもん』や『サザエさん』の内部にある世界と、『風の谷のナウシカ』の内部にある世界、『ランボー』のそれ、これらのあり方は大きく異なる。
 ドラえもんとのび太のいない『ドラえもん』や磯野家のない『サザエさん』の世界は想像できない。これらの作品において例えば背景が描かれるとき、それは主人公達が住んでいる街、行ったところが必要に応じて描かれる。それらはあくまで主人公達に付帯する情報で、関連づけの糸を断ち切ることができない。断ち切ったことにして、試みに彼らの住む"街"だけを想像してみてもあまり意味がないだろう。
 ナウシカのいない『風の谷のナウシカ』という作品は想像できないが、『風の谷のナウシカ』の内部にある世界は容易に取り出すことができる。そこには歴史が描かれているし、個性的な厳しい環境がある。風の谷の住人になって冒険する、そういう愉快な想像の余地がある。ナウシカが生まれなくても「風の谷」は揺るがない。しかし繰り返しになるが、ナウシカのいない『風の谷のナウシカ』はありえない。主人公と物語は特権的な力をもって作品と結びついているようにみえる。
 同様にランボーのいない『ランボー』という作品は想像できないが、では『ランボー』の内部にある世界はどうだろうか?
 もしもあなたがベトナム戦争を知らず、アメリカという国がこの地上にあることも知らないのなら、あなたが一番正しく『ランボー』の内部にある世界を取り出しうるかもしれない。けれどその見方は一般的ではない。『ランボー』の舞台は我らが地球の/アメリカの/どこかの田舎町で、またランボーはベトナム帰還兵である。我らが人類の歴史においてほんの少し前に起こった戦争を主人公は経験している。そういうことになっている。
 となると、『ランボー』の内部の世界は我らが現実世界と共通の、ひとつのスナップショットとみなした上で鑑賞するのが当然の気がしてくる。ここまで来ると『ランボー』の世界を取り出すことは殆ど不可能だ。それは我々の世界とどこかで地続きになっている。

 以上のように、物語の舞台には多様なあり方がある。この違いを生み出すものはなんだろうか。情報量の多寡の問題ではない。実写かアニメか? これは難しいが、少なくとも根源的な要素ではない。
 そのヒントが『王立宇宙軍』にある。『王立宇宙軍』の世界のあり方は、上記のどれとも異なる。あまりに絶妙なバランスで成立しているので、見過ごしてしまいそうだけれど。

 「王立宇宙軍」のいない『王立宇宙軍』という作品を想像することは確かにできない"ようだ"。『王立宇宙軍』の内部から世界を取り出すことはできる。ここまでは『ナウシカ』と同じだ。
 しかし、主人公「シロツグ」のいない『王立宇宙軍』という作品は、どういうわけか想像できそうな気がする。微妙なところだが、しばらく考えているうちに「できそうだ」とわかってくる。主人公は凡人で、たまたま国家事業の有人ロケットのパイロットになる。彼でなくても別の誰かがパイロットになっただろう。そのときはその誰かを主人公にした『王立宇宙軍』が観られそうだ。
 そしてこれに気づいたあとは、「王立宇宙軍」のいない『王立宇宙軍』もなんだかありえそうな気がしてくる。これは結構珍しい、不思議なことだ。
 何を言っているのか曖昧模糊としてきたが、ひとまずそういうものとして聞いて欲しい。いまここで書いていることはたぶん誤読の産物と言えるけれど、このような誤読を許す程度には『王立宇宙軍』は一般性を獲得していると考えよう。

 さて、『王立宇宙軍』の面白さの肝は、「作品世界の取り出し可能性=自立性」とこれを前提にしたのちの「主人公の交換可能性」にある。
 ではどうしてこんなことが可能なのだろうか。
 『王立宇宙軍』の世界は取り出せる。歴史があるし、自我を持った人々が暮らしている。そのように感じられる。
 この感覚を支えている要因はだいたい以下、
・世界、人物、アイテム等、設定やデザインがしっかりしている。ほんものらしく、実在していそうだ。
・主人公達とモブの作画に際だった差異をつけず、あくまで人物として等価に扱っていること。この均質化は、実写は本来備えている。
・背景が緻密である。我々が慣れ親しむ実写や現実世界のように、というわけでは正確にはないが、それ相応の情報量とパース等の光学的整序が与えられている。
・ストーリーのメインとは無関係なカットが存在する。特に、モブに焦点をあてたカットが存在する。それらの素材は、舞台やそこに生きる人々の実在性を強化することになる。"映画"の常套手段だ。
・脚本面でいえば、しっかりと日常的な会話になっている。芝居の作画もしっかりしている。ありそうな気がしてくる。

 ひとまずこのあたりで切り上げる。
 至極一般的なことを書いた。これらに気をつければ取り出し可能な自立した世界を作品内部に作ることは可能だ。
 主人公が交換可能ということは、言い換えれば、主人公の固有性や必然性が作品の固有性や必然性と可分であるということだ。必要条件の一つ、世界の自立性はいま示した。しかしこれは、作品の固有性のほんの一部分に過ぎない。では「物語」はどうだろう?

 「ナウシカ」と『風の谷のナウシカ』は、「物語」を中心に強く結びついている。
 『ナウシカ』の物語は、世界を連続的に包んでいるようだ。あらゆる部分が物語との関連性を持ち得ている。世界の歴史的な一局面に、かなり絞った焦点をあてて見せている。ピントが合っていてあまりにクリアに見えるし、またそこだけを見せているので、見えていない部分も同じように続いている気がする。しかし、車がアスファルトの上しか走ったことがないからといって、オフロードがないことにはならない。
 メインストーリーとは無関係な素材を挟むと、物語は連続的ではなくなる。離散的になる。サイコロの出目のように散らばっている。しかし我々は「神はサイコロを振る」ことを経験的にも科学的にも知っている。離散的な物語はこの事実を思い起こさせてくれる。「偶然」という、ひとつのリアリズムだ。
 このリアリズムを実践するように、『王立宇宙軍』はオフロードも走る。気ままな走り方だ。主人公「シロツグ」と「物語」の結びつきはどうにも緩い。だから散漫で、面白くないかもしれない。でもそれは本当は気ままではないのだ。
 『王立宇宙軍』には「繰り返し」が多い。「反復と差異」、基本的な物語素だ。それらの反復はしばしば、というか殆どメインストーリーと無関係だ。"偶然"の要素が繰り返される。メインストーリーの素が<1の目>なら、それがもっとも"拾われ"、映される。しかし、<2の目>も<5の目>も比較的拾われる。ときには<6の目>を拾ったりもする。『王立宇宙軍』はそのように構造化されている。だから、シロツグがなんとなく主人公の資格たるパイロットになった偶然も、「偶然の構造」に回収されていく。
 『王立宇宙軍』の構造はもっと多層的だが、いまはこれに代表させよう。この「偶然の構造」が『王立宇宙軍』の固有性であり、これを担保として主人公シロツグは交換可能であり、タイトルをはる王立宇宙軍さえも交換可能だ。となると、この映画は無限に物語を生み出すことが可能だ、と論理的には言えそうだ。うん、妙な映画だ。


*おわりに
 ずいぶん駆け足となったが、ここで筆を置く。
 白状すると、今回のエントリーは鈴谷了氏の評論にインスパイアされて書いた。
 重要な着想はすべて氏のもので、私の文章は殆どただの劣化コピーと言っていい。
 しかしどうしても自分でまとめる必要を感じ、正直になることにした。
 『王立宇宙軍』を観たことのある方、特に「これ面白いか?」と思った方は氏の評論を読んで欲しい。とても刺激的だと、私は感じた。