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『王立宇宙軍~オネアミスの翼』

王立宇宙軍 オネアミスの翼
山賀博之『王立宇宙軍~オネアミスの翼』(1987,GAINAX)

 ストーリーを追うのが快楽な、そういう普通の作品ではない。アクションの快楽を追う作品でもない。すなわち漫然と観て楽しいエンターテインメントではない。
 けれども別種の体験を味わえる。
 この作品には世界がある。映画が始まる前・終わった後にも続いている世界が"既に"ある。

 これは当たり前のことではない。
 物語には登場人物と舞台=世界、どちらも必要である。それらを欠いた物語は想像すらできない。だから暗黙の了解として、作品内部に存在し続けるであろう世界を想定し、関連づけながら観客は視聴する。作品内部には世界があることになっている。世界の連続性を担保として、物語という連続性が認められる。
 『ドラえもん』や『サザエさん』の内部にある世界と、『風の谷のナウシカ』の内部にある世界、『ランボー』のそれ、これらのあり方は大きく異なる。
 ドラえもんとのび太のいない『ドラえもん』や磯野家のない『サザエさん』の世界は想像できない。これらの作品において例えば背景が描かれるとき、それは主人公達が住んでいる街、行ったところが必要に応じて描かれる。それらはあくまで主人公達に付帯する情報で、関連づけの糸を断ち切ることができない。断ち切ったことにして、試みに彼らの住む"街"だけを想像してみてもあまり意味がないだろう。
 ナウシカのいない『風の谷のナウシカ』という作品は想像できないが、『風の谷のナウシカ』の内部にある世界は容易に取り出すことができる。そこには歴史が描かれているし、個性的な厳しい環境がある。風の谷の住人になって冒険する、そういう愉快な想像の余地がある。ナウシカが生まれなくても「風の谷」は揺るがない。しかし繰り返しになるが、ナウシカのいない『風の谷のナウシカ』はありえない。主人公と物語は特権的な力をもって作品と結びついているようにみえる。
 同様にランボーのいない『ランボー』という作品は想像できないが、では『ランボー』の内部にある世界はどうだろうか?
 もしもあなたがベトナム戦争を知らず、アメリカという国がこの地上にあることも知らないのなら、あなたが一番正しく『ランボー』の内部にある世界を取り出しうるかもしれない。けれどその見方は一般的ではない。『ランボー』の舞台は我らが地球の/アメリカの/どこかの田舎町で、またランボーはベトナム帰還兵である。我らが人類の歴史においてほんの少し前に起こった戦争を主人公は経験している。そういうことになっている。
 となると、『ランボー』の内部の世界は我らが現実世界と共通の、ひとつのスナップショットとみなした上で鑑賞するのが当然の気がしてくる。ここまで来ると『ランボー』の世界を取り出すことは殆ど不可能だ。それは我々の世界とどこかで地続きになっている。

 以上のように、物語の舞台には多様なあり方がある。この違いを生み出すものはなんだろうか。情報量の多寡の問題ではない。実写かアニメか? これは難しいが、少なくとも根源的な要素ではない。
 そのヒントが『王立宇宙軍』にある。『王立宇宙軍』の世界のあり方は、上記のどれとも異なる。あまりに絶妙なバランスで成立しているので、見過ごしてしまいそうだけれど。

 「王立宇宙軍」のいない『王立宇宙軍』という作品を想像することは確かにできない"ようだ"。『王立宇宙軍』の内部から世界を取り出すことはできる。ここまでは『ナウシカ』と同じだ。
 しかし、主人公「シロツグ」のいない『王立宇宙軍』という作品は、どういうわけか想像できそうな気がする。微妙なところだが、しばらく考えているうちに「できそうだ」とわかってくる。主人公は凡人で、たまたま国家事業の有人ロケットのパイロットになる。彼でなくても別の誰かがパイロットになっただろう。そのときはその誰かを主人公にした『王立宇宙軍』が観られそうだ。
 そしてこれに気づいたあとは、「王立宇宙軍」のいない『王立宇宙軍』もなんだかありえそうな気がしてくる。これは結構珍しい、不思議なことだ。
 何を言っているのか曖昧模糊としてきたが、ひとまずそういうものとして聞いて欲しい。いまここで書いていることはたぶん誤読の産物と言えるけれど、このような誤読を許す程度には『王立宇宙軍』は一般性を獲得していると考えよう。

 さて、『王立宇宙軍』の面白さの肝は、「作品世界の取り出し可能性=自立性」とこれを前提にしたのちの「主人公の交換可能性」にある。
 ではどうしてこんなことが可能なのだろうか。
 『王立宇宙軍』の世界は取り出せる。歴史があるし、自我を持った人々が暮らしている。そのように感じられる。
 この感覚を支えている要因はだいたい以下、
・世界、人物、アイテム等、設定やデザインがしっかりしている。ほんものらしく、実在していそうだ。
・主人公達とモブの作画に際だった差異をつけず、あくまで人物として等価に扱っていること。この均質化は、実写は本来備えている。
・背景が緻密である。我々が慣れ親しむ実写や現実世界のように、というわけでは正確にはないが、それ相応の情報量とパース等の光学的整序が与えられている。
・ストーリーのメインとは無関係なカットが存在する。特に、モブに焦点をあてたカットが存在する。それらの素材は、舞台やそこに生きる人々の実在性を強化することになる。"映画"の常套手段だ。
・脚本面でいえば、しっかりと日常的な会話になっている。芝居の作画もしっかりしている。ありそうな気がしてくる。

 ひとまずこのあたりで切り上げる。
 至極一般的なことを書いた。これらに気をつければ取り出し可能な自立した世界を作品内部に作ることは可能だ。
 主人公が交換可能ということは、言い換えれば、主人公の固有性や必然性が作品の固有性や必然性と可分であるということだ。必要条件の一つ、世界の自立性はいま示した。しかしこれは、作品の固有性のほんの一部分に過ぎない。では「物語」はどうだろう?

 「ナウシカ」と『風の谷のナウシカ』は、「物語」を中心に強く結びついている。
 『ナウシカ』の物語は、世界を連続的に包んでいるようだ。あらゆる部分が物語との関連性を持ち得ている。世界の歴史的な一局面に、かなり絞った焦点をあてて見せている。ピントが合っていてあまりにクリアに見えるし、またそこだけを見せているので、見えていない部分も同じように続いている気がする。しかし、車がアスファルトの上しか走ったことがないからといって、オフロードがないことにはならない。
 メインストーリーとは無関係な素材を挟むと、物語は連続的ではなくなる。離散的になる。サイコロの出目のように散らばっている。しかし我々は「神はサイコロを振る」ことを経験的にも科学的にも知っている。離散的な物語はこの事実を思い起こさせてくれる。「偶然」という、ひとつのリアリズムだ。
 このリアリズムを実践するように、『王立宇宙軍』はオフロードも走る。気ままな走り方だ。主人公「シロツグ」と「物語」の結びつきはどうにも緩い。だから散漫で、面白くないかもしれない。でもそれは本当は気ままではないのだ。
 『王立宇宙軍』には「繰り返し」が多い。「反復と差異」、基本的な物語素だ。それらの反復はしばしば、というか殆どメインストーリーと無関係だ。"偶然"の要素が繰り返される。メインストーリーの素が<1の目>なら、それがもっとも"拾われ"、映される。しかし、<2の目>も<5の目>も比較的拾われる。ときには<6の目>を拾ったりもする。『王立宇宙軍』はそのように構造化されている。だから、シロツグがなんとなく主人公の資格たるパイロットになった偶然も、「偶然の構造」に回収されていく。
 『王立宇宙軍』の構造はもっと多層的だが、いまはこれに代表させよう。この「偶然の構造」が『王立宇宙軍』の固有性であり、これを担保として主人公シロツグは交換可能であり、タイトルをはる王立宇宙軍さえも交換可能だ。となると、この映画は無限に物語を生み出すことが可能だ、と論理的には言えそうだ。うん、妙な映画だ。


*おわりに
 ずいぶん駆け足となったが、ここで筆を置く。
 白状すると、今回のエントリーは鈴谷了氏の評論にインスパイアされて書いた。
 重要な着想はすべて氏のもので、私の文章は殆どただの劣化コピーと言っていい。
 しかしどうしても自分でまとめる必要を感じ、正直になることにした。
 『王立宇宙軍』を観たことのある方、特に「これ面白いか?」と思った方は氏の評論を読んで欲しい。とても刺激的だと、私は感じた。