今月の消化
最近読んだり見たものをまとめて。
覚え書き程度の感想です。
中島らも『僕に踏まれた街と僕が踏んだ街(増補版)』
約10年ぶりの再読。すいすい読める。
60年代に少年期を生きた作家といえば、村上龍や春樹がめぼしい。龍の『69』の伝える空気とこの本の最初の半分が伝える空気は同じものだ。彼らは言いしれぬ怒りを抱えている、という印象でそれと比して僕等の世代は怒りはそうでもない、と今まで思っていたのだけれど、あんまり自信がなくなってきた。らも先生は怒りがどうとかいう次元を越えちゃってる。
サリンジャー『ナイン・ストーリーズ』
殆どの短編が、なんだかよくわからないままに終わってしまう。しかし気になる。つまり面白い。けどどうにも信じ切れない。
サリンジャーは「いつもたいてい非常に若い人たちのことを書いている」と言ったそうで、それはやっぱり正しいように思う。
「非常に若い人たち」のことを、「こんな世の中インチキだ」と気づいてしまう心性の持ち主で、またそれに伴う怒りやもどかしさをもてあましつづけてしまう、そういう人たちと読み替えるなら、だいたいの短編には当てはまっているようだ。
いちばん理解に苦しんだのは「愛らしき口もと目は緑」だ。
登場人物はベッドにいる男と女、そして男に電話してきた受話器越しの男。彼は妻の浮気を疑う夫だ。
短編の筋立てに心得があるなら、ベッドの女は夫の妻かと疑う。お約束である。ラスト数ページまではそのように読んでもボロが出ないようになっている。しかし終盤、夫は「妻が帰ってきた」という。それを信じるとするなら、男がそれを告げられた途端に電話を切りたくなり、うちひしがれたような様子をする理由がよくわからないことになる。男は今晩の妻についていくらかのことを知っていたが、夫から最後聞かされたことがなにかしら意外だったのだろう。
野暮なのだ。よくできた人物の入れ替わりも盲点もここにはない。サリンジャーがそういう出来合いを拒否するのは当たり前の話だ。
涼元悠一『ナハトイェーガー ~菩提樹荘の闇狩姫~』
構成が練られていないように思う。シーンの役割がしばしば強引に切り替えられる。
以下、敬愛する百合の大家・中里一氏の2006年12月18日より引用↓
常人の主人公(女子高校生)が、物の怪らしき幼女に愛される話である。 造作は凝っているが、根本的なことがなにも起こらない。 「ホモ」や「ゲイ」の同義語として「やおい」や「BL」という言葉を使うBLを、私は知らない。百合はBLに相当する言葉なので、登場人物が「百合」という言葉を使うべきではない。ナラティブやフィクションに関する意識において、男性文化は女性文化より30年は遅れている。
「百合」をはやし立てる周囲の女子高生らの無邪気さや"趣味"は好ましいが(なにしろ舞台の高校はかつては女子校だ)、彼女らが「百合」と口にすることで、本来この作家が目指すべきリアリティからはずれていってしまうように思う。
「百合」と書かれるのは、いつも学園コメディタッチのシーンである。いってみれば祭りでありVIPでありネタでありベタであり、ギャルゲー的日常である。たしかにそれらは文学的美意識とはほど遠い、スノビスムの支配する領域だ。ギャルゲー畑の作者の、象徴的事態が出来したと考えていいだろう。
若い人のテクストを読んでいると、「それをそのまま書いちゃうの?」と呆れることがよくある。登場人物の美しい女性を「美しい」と形容し、彼女が凄みを見せれば「怖ろしい」と書く。基本の形容でこの有様なのだから、あとは推して知るべし。こういう不調法は、たしかに男性のほうが惨憺たるものがある。
映画 サム・ライミ『スパイダーマン』
キュートな映画だ。
日本人にうけるのはうなずける。
サム・ライミは『死霊のはらわた3』だけを見たことがある。狂気じみたご都合主義が持ち味だと思い、今回もそれを期待するところがあったのだが、さすがにメジャー映画なのではっちゃけ度は物足りなかった。
映画 スティーヴン・スピルバーグ『プライベート・ライアン』
噂通りに戦闘シーンが圧巻。
生き残り、「しっかり生きる」ことを約束したライアン。老年の彼が犠牲となった隊長の墓参りをするプロローグとエピローグに大戦時の本編が挟まれている。
やはり私には絵に描いたようなヒューマニズムが合わない。ストレートすぎ、論理階梯がショートしているように感じてしまう。
そういう意味でスピルバーグはいつも肝心なところをはぐらかし、エンターテインメントへ走ってしまうと感じる。良くも悪くもプロフェッショナルだと思う。
しかし良い映画であることは間違いない。フォローではなく、心底そう思う。
映画 ロニー・ユー『SPIRIT』
ジェット・リー主演、中村獅童共演。
よく出来ている。思う存分楽しめた。クンフーアクション映画の鑑と言っても、そんなに言い過ぎではないと思う。
映画 スタンリー・キューブリック『シャイニング』
1980年の映画。
ホラー映画の祖らしい。
感嘆したが、結構だるかった。万全の体調で、部屋を暗くして見るべき映画だ。日が悪かった。
映画 スタンリー・キューブリック『時計じかけのオレンジ』
1971年の映画。
素晴らしい。本当に面白かった。
"悪しき"人間性の話、と受け取るとひとまず腑に落ちた。
まだまだいろんな誤読ができそうで(傑作の条件)、それが楽しみだ。
目の背けたくなるような、胸くその悪い、悪趣味で残虐非道な行いが連発される。「火力」の大盤振る舞い。勘弁してくれと思う。未曾有の火力密度で、常人の所業ではない。キューブリック万歳。
映画 ラース・フォン・トリアー『ダンサー・イン・ザ・ダーク』
2000年カンヌ国際映画祭・パルムドール・主演女優賞受賞作。
序盤はだるいが、ミュージカルが始まった瞬間脳髄が叩き起こされた。
「ドグマ95」という映画製作の原則にある程度忠実に撮っているらしい。それが成功している。編集やレタッチバリバリの画づくりに慣れた我々は、却ってこういった無造作な画にすごみを感じる。なんだかドキュメンタリーみたいに見え、自分がそこに立ち会っているようだ。
それと、ビョークは背が低いしあの顔立ちだから母親に見えないw 途中まで姉弟だと思ってた。
映画 ラース・フォン・トリアー『ドッグヴィル』
トーンを抑制しつつも露骨な、文芸的な態度が鼻につくが、でも素晴らしいと思う。
セットが規格外。おかげでぎゅぎゅいと締まっている。そこは観てのお楽しみ。
ニコール・キッドマンが大変エライ目にあう。逃亡先のこの世の果てのような寒村で仕事をし、信頼を得ていくが・・・・・・
観念的道徳ひいては理性の無力さ、赦しの話、とひとまず受け取った。
映画 ラース・フォン・トリアー『マンダレイ』
『ドッグヴィル』の続編。「アメリカ合衆国 - 機会の土地」三部作の2作目。
前作ほどは引き込まれなかった。原因は「主演が変わったこと。ニコール・キッドマンが見たいよ!」「セットのあり方は前と同じだが、規模が大きくなり、閉所の緊張感が減ったこと」「同様に規模が大きくなり、土地全体がカメラに入りきらないために、神の視座にいるような把握感がない。相対的に視野が狭くなるために、付帯的なからみあいを見られる機会が減っていること」。
最後の畳み方が良くできていて、感心すると同時に詐術めいており、少し萎えた。私が読み取れていない可能性が高いが、上手な構成にとどまっている気がする。
テーマ面については、前作ほどは広がりがない印象を受ける。黒人問題という文脈が存在し、そこに観客がフォーカスしやすいのが原因だ。おおざっぱに言えば自由の話。
