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祝!『リトルバスターズ!』発売

リトルバスターズ!
 諸君。喜んで欲しい。
 今日はKeyの新作『リトルバスターズ!』の発売日である。
 Keyは、私にとって最も特権的なナラティヴの送り手である。
 私は彼らにギャルゲーの可能性を見続ける者である。
 『ONE』から一貫して、彼らの作品の前半はスラップスティックの日常で占められている。ギャルゲー的日常である。それは終焉を約束された日常だ。日常は破壊されうる。家庭の事情、天災(地震雷火事親父)、人災(強盗強姦殺人戦争)、その他諸々の外圧、そして時の流れ。日常は所与のものではない。日常とは本来、そういった脆さを備えている。
 その脆さをあざ笑うかのように/祝福するように、Keyの作品は必ず日常を破壊する。超越的な、不可視の力によって破壊する。だからこそ日常に意義を与えうる。
 私はギャルゲーを好むが、ある時期からお気楽で愉快な日常パートを読むのが耐え難くなった。何一つ愉快でなくなった。それらの幸せで輝かしい日常は、作品内部において所与のものでしかなかったからだ。それらの根拠はジャンルに“しか”なかった。そのようなテクストは、系の内部においては一つの解釈しかうまない。すらすら意味がわかり、またそれ以外の意味を持たないテクストの何が面白いのか。
 日常が所与のものでないことを示すには、破壊するか、既に終わっていたことにするかのどちらかだ。
 既に終わっていた作品には、例えば『CROSS†CHANNEL』がある。日常を回復しようと試み、失敗する話だ。なぜ失敗しなければならなかったのか。それは既に終わったからだ、と答えよう。
 既に終わっていた作品をもっと巧妙にすると、終わりの内在された物語になる。実際のところ、これが普通の物語である。

 破壊の話をしよう。
 日常を終わらせるだけなら誰にでもできる。ヒロインと恋仲になればいい。ハッピーエンドだ。そこから始まる物語を放棄するなら、一丁上がりだ。幸せで結構だが、あまり面白くはなさそうだ。
 そこでKeyである。
 Keyは日常を、完膚無きまでに破壊してみせる。それも理解不能な方法でだ。無根拠な力で、時には伏線さえはらずに。だから人はその理由を作品の内外に求める。そこに誤読の余地がある。それは紛れもなく、豊かさの契機だ。だから、Keyのこの手法への拘泥を私は肯定する。キャラクターとの日常を手放せないギャルゲーだからこそ、彼らの残酷さが必要だ。
 しかし同時に危惧もしている。
 『AIR』の時点で、Keyはひとまずその歴史的使命を終えた感がある。Keyは生まれ変わる必要がありそうだ。事実そうなりつつある、が路線変更ならいらない。Keyの本質、私が情熱の眼差しを注ぐあれこれに根ざした、発達的変容であって欲しい。それはとても困難な道だ。『ONE』の形式的完結を越えることなぞ、到底できそうにない。それでも・・・・・・
 『CLANNAD』の破壊は、渚のいたって現実的な死によって行われた。破壊にもヴァリエーションを作らざるをえないから、それはいい。各キャラシナリオにおける破壊も、同様にそれぞれの現実的な都合によって行われた。凡庸のきらいがあるが、これが『CLANNAD』の構造であり、認めるものだ。
 だが、「幻想世界」と「街の意志」はどう処理されたか。人々の願いや想いを受けとめる「街の意志」が明らかに軸だった。その周りで、「幻想世界」は根源的な機能を果たさず、全く静止していた。尾てい骨でしかなかった。では排除すればよかったというと、そうでもなかった。できたらやっていたに決まっている。Keyはそれほど愚かではない。「街の意志」という超現実的な力場は、渚の復活という現実的な力をふるった。はっきりと言おう。そのためだけにあった。これは予め決められた失敗だ。祈ったことをそのまま叶えてくれる神は、神ではない。それは悪魔だ。もちろん、渚の復活の影にはいくつもの見過ごされた願いがあったろうから、この悪魔崇拝は希釈されている。しかし、シナリオライターはその臭いを無視できなかった。別の香りでごまかす必要があった。そのための「幻想世界」なのだ。「幻想世界」は孤独な、取り残された、取引のない世界だ。これを「街の意志」と相克させることはかなわなかったが、その存在がかろうじて『CLANNAD』を人間の領域に、価値ある領域にとどめていた。
 『智代アフター』はどうだろう。
 『智代アフター』の破壊に、伏線はなかった。主人公に訪れた、あの呆れるほど唐突な破壊。誰もが「(゚Д゚)ハァ?」となるあの破壊。確かに言語道断だろう。どう受け取っていいか態度を決めかねるどころか、「なかったこと」になっているか、「『ONE』で似たことをやっていた、卑怯な形でお家芸を出された、仕方ないな」というところで落ち着いているのだろう。
 しかしである。
 ちょっと検索してみたのだけれど、誰も言っていないようだし、ここできちんと言っておく。
 『智代アフター』のOP後、主人公が部屋に戻ると「とも」がいる。隠し子がどうのと一応理由付けはあるが、なし崩しにというか強引にというか、とにかく「とも」を娘として迎え、生活していくことになる。この展開も「(゚Д゚)ハァ?」な印象を与えるものだ。もちろん『智代アフター』(の大半)はそういう物語だ。「とも」を受け入れ、現実的な困難と折り合いながら、いずれは元の鞘へ還していく物語だ。だが、その導入はあまりに“唐突”なものだ。主人公の破壊も“唐突”だった。この重要な、作品にとって最も根源的な「突然の邂逅」によって作品の最初と最後が始まっていることを見逃してはならない。この一致は必然である。この構造的一致に比べれば、ストーリーから引き出せるいくつかのテーマなど、どうということはない。「永遠に続く愛はある」ことを証明するために、主人公や智代は執拗な、正に狂気の領域にある努力と継続を見せ続ける。しかしそれは運命のいたずら、「突然の邂逅」によって物理的・実際的には断念されるのだ。「運命には抗えない。現実とはそういうものだ。しかし諦めない姿は尊く美しい」ということを教えてもらって面白いかというとそうでもないが、少なくとも『智代アフター』の「突然の邂逅」と「意志の力(努力と継続)」の二重奏は、十分強固で徹底されている。この徹底性に私は感嘆を禁じえない。


 さて。『リトバス』である。
 以上を踏まえて、『リトバス』への期待をいくつか。

・棗鈴たんに「めっ!」ってされたいっ!!
・クドに「わふー」ってされたいっ!!

 というのも全くの本音であるが、真面目な話、麻枝准が担当する棗鈴シナリオ、そしてツートップのもう片方、神北小毬シナリオ(こちらは都乃河勇人担当)。この二つがどのような対の構成を見せてくれるかだ。
 タイトルの「リトルバスターズ」は、主人公ら男性陣と棗鈴が幼い頃に結成した悪ガキ愚連隊からくる。つまり、「過去」が用意されている。この過去は、なにか幻想的な、例えば夢のような経路によって「現在」を“包んでいる”はずだ。その中心にあるのは主人公と棗鈴であり、二人がかつて偶然に交わした超越的な何かだろう。そしておそらく、大切なもの(例えば他のヒロイン達)を断念していく話になるのではないか、と思っている。CLANNADも智代アフターも諦めない話だった。リトバスでは諦める話を見たい。
 棗鈴と対になる神北小毬は、「現在」を代表するキャラだろう。彼女の特権性と棗のそれは対立してくれるはずだ。今までもKeyの作品には対となるヒロインたちがいた。栞と香里、美凪とみちる。しかしそれらには主従の別があった。栞や美凪が主だ。そして、実はそれらの関係性の間に主人公はいなかった。今回はいるか、いようとしてくれるか。
 対といえば先述の「突然の邂逅」と「意志の力」のように、作品の根源に関わる「超越的なもの」と「キャラクター・人間の水準」もそうだ。これも「超越的なもの」が主だ。今回はそういった力関係の差をなくしたものが見たい。「超越的なもの」同士の戦いだ。人間を包んでいる、人間の業に根ざした、超越的なもの同士の戦いだ。
 あまりろくなことは書けなかったが、これが『リトバス』への期待だ。


 リトバス発売の祝辞の割にはいささか長く脱線したようだが、これが私からの精一杯の声援である。
 『この街と、住人に幸あれ。』