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2007年09月18日

『乙女ケーキ』つづき

つづき。

○ぬいぐるみのはらわた
[ぬいぐるみ・名付け・分身・形見分け]
 AはBが好きだが、Bはノーマル。この時点で百合的には下策。男が障害になるのはうざいだけ。BがAを恋愛の視線で見ることが永遠にない、という軸は結構だが、ノーマルだからという理由付けは乗り越えられるべき。それは人の生理ではない。
 [名付け・分身]:くまのぬいぐるみがAに似ているとBが指摘。Aの名前をぬいぐるみに名付ける。なんて残酷な!
 本編では鈍感なBが他の男に行き、Aはやつあたりでぬいぐるみのはらわたを引きずり出すが、やつあたりでは弱いので↓

分身のぬいぐるみがBのそばに。Aが妄想をかきたてる(私の身代わりがあの子のそばにいるなんてハァハァ)
→でもやっぱり代わりじゃなくて私を愛して欲しい、という具合に屈託、ぬいぐるみふぜいがあの子のそばにいるなんて赦せない!とはらわたを引きずり出す
→でもやっぱり妄想力の賜物で、「代わりでもいいからつながっていたい」と絶望的な肯定をする

 という展開が見たい。
 特別の因縁ある、異形としての[一個のぬいぐるみ]もいいが、[ぬいぐるみ]が真価を発揮するのは群体としてだろう。低身長の娘がうさぎの耳を持って引きずるのもいいが、ちょっと少女趣味な娘の部屋にいったらやっぱり異常な数のぬいぐるみがあって、なんだかんだでトラウマ発動して人事不省で絶賛ひきこもって、主人公を知らない人と認識するようになって、「○○くんどこぉ? ・・・・・・なんだぁ、ここにいたんだねぇ」とぬいぐるみに話しかけてだっこして、看病に通うけど主人公の身代わりのぬいぐるみも毎日違ってて処置無しだよ!とかな。

○みちくさ
[下校・みちくさ・草花・おさななじみ・手を繋ぐ]
 男嫌いがどうとかも、ノーマルキャラと同様にやめておいた方がいい。百合だから男が嫌いになるわけでも、男が嫌いだから百合になるわけでもない。単純な消去法の支配、それは間違った世界の話だ。一顧だにしなくていい。
 [手を繋ぐ]くらい仲がいい[おさななじみ]が、腹の内では騙しあっているのは構わないが、「女の子が好きなフリ」で騙すのは性急だ。
 考えられる展開は、{[草花]に詳しいAは、昔からことある毎に教えているが、Bは覚えない。その身勝手さや無自覚をAは軽蔑しているが、Bのそういった軽やかさに救われる瞬間を設ける}といったところか。
 百合の関係の自明さを、[おさななじみ]の関係の自明さに任せてしまっていいのか。基本的にはいいわけがない。しかし、やるときには純粋で屈強な狂気をもって[おさななじみ]でありつづけた方がいい。『水月』の雪が、母でもメイドでもない「母」でも「メイド」でもあり続けたように。

○タイガーリリー
[夢・午睡・演劇・目を閉じる・キス・約束・忘却]
 要素だけ見るとそれなんてエロゲ?だが、読んでいて思い出すのは高野文子の「田辺のつる」(『絶対安全剃刀』所収)と「春ノ波止場デウマレタ鳥ハ」(『おともだち』所収)。
 老婆が女子高生の姿で描かれるのは、「田辺のつる」の幼女で描かれるつる婆さんだし、演劇で女子二人が距離を縮めるのは「春ノ波止場~」。余談だが「春ノ波止場~」は何故面白いのかわからないくらい面白いのでお勧め。
 本編のキモは、AとBがすでに夫を亡くしていて、片方は母校の寺尾先生のはずのようで、なおかつどっちがどっちかわからないところ。夢・忘却・不在の起点になってる。顔の描かれない存在で、随分とあざとい。ヒくかもしれないが、それはそれ。
 手の加えようのないほどダメか、とりつく島もないほど完結しているか、評価はお任せするが、諸事情により本項はここで打ち止めとする。

○ショートカット
[髪を切る・真似・手鏡・自己嫌悪・キス]
 Aに憧れるBは、Aの真似をする。この発想はどこからくるか。女同士の同質性から来るなら、直ちに捨て去るべきだ。

古いエロレズの発想には、男女間の非対称性・異質性の裏返しとして、女同士のあいだに対称性・同質性を求めるものが多い。(中略) エロレズにおいて、女同士のあいだに対称性・同質性を求めるのは間違っている。人類の遺伝子の多様性は、チンパンジーなどに比べてはるかに小さいのに、人種や民族のような差異で分断されており、人類の同質性を感じるのは難しい。これと同じ理屈で、女性しか出てこない世界では、女性の同質性を描くことはできない

 本編は順当に、「でもね 本当は知ってるの どんなにマネしたって私が沢ちゃんになれないってこと それと・・・ 沢ちゃんの心を うばえないってことも」と破棄している。異質性への気づきに恋愛の不可能性をはき違えるのは頂けないが、これも必要な一歩だ。
 同様に、自己愛や自己嫌悪も百合が同性間であること、その表層から見出してはいけない。

○氷砂糖の欠片
[疲れた母・父からの電話・氷砂糖・冷光・誕生日プレゼント]
 母と父の結婚生活の失敗を、氷砂糖の冷光現象を見たのをきっかけに母が昇華し、その様を見たAが、自覚していなかった自分の冷たさを乗り越える話、とまとめられるが、随分とぎくしゃくしている。
 「母の昇華」はAが能動的に関わって達成されたものでなく、母が回想し、救いに気づいたことで行われる、独りよがりなものだ。ここにクライマックスが置かれているので、主人公の話ではなくなっている。
 「母の昇華」の筋を補い、Aの筋として回収されるように、[父からの電話]を繰り返させる必要がある。短編としてはそれで成り立つが、どうも百合にはならない。母やAが共通して持つ「冷たさ」が、どのようにAとBの障害になっているかがはっきりしない。Aは社会化不十分な空気読めない子なので、つきあいが不得手です、というのは弱い。
 それを放置して百合らしくするとして、すでに好きあっているAとB、Bが勇気を出してAにキスをして、Aが条件反射で拒否してしまうところから始め、中盤をこなし、清流で蛍が舞うなかAからBにキスをして和解か。

○夏の繭
[水泳・ペットボトル・生理・髪]
 [水泳・ペットボトル]:水。こんな不潔な自分があの子に触れられてはいけない、というところで[水]を忌避している。
 [生理]は百合に必要か? 生理は身体を縛るゆえに、自我も縛る。それは避けられないことだが、直接出すものでもない。不可避の痛みは他にもあるはずだ。
 [髪]:よくよくタカハシは髪に執着があるらしい。殆ど憎んでいる。女性性を憎んでいる。「髪を切ってハッピーエンド」は自立しないが、身体の一部でありながら装飾でもある[髪]は、悪くない意匠だと思う。触れる、梳く、口づける、切る、束ねる、編む、抜ける以上に何ができるかというとあまり思いつかないが。その点、本編の「Aが寝ている間にBがもてあそび、口づけた」のはよいフェチだ。

○サンダル
 書くことがない。

○彼女の隣り
 桜の木の下のBに一目惚れしたAが、Bに近づくためにわざわざBの彼氏を経由した迂遠さは愛らしい。

○乙女ケーキ
[家庭科・屋上・かっぽうぎ・ケーキ・入刀=結婚式ごっこ]
 屋上で結婚式ごっこは意外に思いつかない、と思ったら『少女セクト』のp17からさらりと小ネタで入っていたので玄鉄絢はすごい。
 なぜ屋上か。校内で日常の延長になく、ロマンがある場所といえば当然そうなる。
 『Kanon』の真琴はものみの丘だった。異界、聖域。たしかに[屋上]は教会よりよっぽど聖域くさい。
 [屋上]の例は枚挙に暇がないが、『ONE』の川名みさき以上に鮮烈なのは永遠にないでしょう、原理的に。屋上で見るものっていったら空以外にありえません。校庭や街並みは二の次。みさき先輩は盲目なのに、夕焼けを見るために屋上にいるんですよ。「そのための場所」に「それが不可能」な人が「そのためにそこにいる」。これ以上なにを語れと。


*まとめ
 「キスをしてハッピーエンド」は百合でも成り立つが、勿論弱い。
 「ハーレムに入ってハッピーエンド」を『歴史のくずかご』その他『少女セクト』で見るが、これはなかなか強い。「恋愛は一対一でするもの」というイデオロギーが支配的な現世では、三角関係が背徳性や選択を強いる故に緊張感を生むように、ハーレムハッピーエンドのありえなさはそれ故に美しい。3人いればできるので、短編でも可能だ。現在最有力であり、業界標準の一つになっていくだろう。
 それとは別に、一対一でも成立するのものは?
 これがわからない。「監禁されてハッピーエンド」はエロレズでは強固だが、非ポルノでは冗談にしかならない。ハーレムや監禁と発想は同じだが、「同棲」は十分成立する。カップルを絶対化する発想。ただし、捻れが圧倒的に小さく、弱い。
 いつもここで思考停止する。おそらく致命的に何かを見落としているのだろうが、それはいつだって後にならないとわからない。

2007年09月15日

タカハシマコ『乙女ケーキ』

乙女ケーキ
タカハシマコ『乙女ケーキ』(一迅社,2007)

 随分前に『女の子は特別教』について書くよ~って言ったけど代わりにこれで。
 百合の短編集です。とりあえずタイトルにめろめろ。乙女ケーキて! こうなんつぅか、ふんわりしてて、甘くて、白いんですよね! あと帯の推薦文が桜庭。すべてが媚び過ぎやろ、俺にたいして。

*これまでのタカハシ
 BL出身の作者は、男性向け成年コミックにおいてアナーキーな鋭さを発揮してきた(『女の子は特別教』『水色ノート』『冷たいお菓子』)。女性キャラの魅力を引き出し、ポルノ描写の扇情性を実現するための逆算を経糸に、成年コミックは秩序立つ。その身勝手さを暴き立てる(まったく大きなお世話だが)、毒のある短編がタカハシの強みだった。内面のある、傷つく主体や既に傷ついた主体として少女を描いたり(これは普通)、白痴のように何をされているか理解しない少女を描くことで(これが偉い)、成年コミック特有の因果関係の不条理を露呈させ、押し進めた。
 ふーん、て感じですね。

*『乙女ケーキ』感想
 マンガとしては、それほど感心しない。テーマを先取りするような、強引に文脈を絞っていくような、急いたセリフが厭らしく、説得力がない。きたならしく、有り体に言えばへたくそだ。
 直接的な原因は明白だ。作者が百合に慣れていない。作者はあとがきでこう語っている。

百合まんがはフダンより更にひどく長時間なやむので(中略)
「この感情は百合だ。」と、私の中で思うものを探す旅(脳内)に時間をものすごく使ってしまったの原因です。

 つまり固くなっている。論理をどれほど重ねても、前提を間違えれば結論も間違う。百合という系を勘違いすると(例えば問題系であるかのように)、こういうことが起こる。百合はカオスではないが、連立二次方程式ほど単純でもない。
 この失敗の根底には、政治的な要因がある。お手本となるドラマツルギー(ドラマの製作手法)が策定されていれば、考慮しなくていいことに気を取られることなく、作家のリソースは効率的に運用され、失敗は減り、品質も上がる。作り手の「批評的」思考など、害悪でしかない。ただひたすらに忠実であればいい。そのためのドラマツルギーは、まだきちんと整備されていない。ジャンル固有の文脈の発展と蓄積が本格的に始まるのはこれからだ。コミックスにおいて百合の専門誌ができたのは、2003年(『百合姉妹』マガジン・マガジン)のことだ。諸々裾野は広がっているが、専門誌はというと目下『コミック百合姫』(季刊)『コミック百合姫S』(2007.6~ おそらく季刊)の二誌のみだ(いずれも一迅社)。つまり、何が言いたいかというと、「バカがっ・・・・・・! 足らんわっ・・・ まるで・・・!!」

*『乙女ケーキ』をダシにぐだぐだ
 百合の先輩はBLだが、タカハシマコの出身もBLだ。彼女のBL単行本(『泣いちゃいそうよ。』『ドーナツ通信』など)を読むと、殆どの作品が「キスをしてハッピーエンド」である。すれ違いつつも、思いを通じ合えた、めでたしめでたしである。これは「強姦されてハッピーエンド」の後退した変奏に過ぎないが、経済的でよろしい、と褒めておく。
 ではタカハシの百合はどうなったか。意匠を抜き出しながら、百合のありうべきドラマを探ってみる。
 決まり事として、百合に必ず出てくるつがいの少女のうち、主人公をA、片割れをBとする。

○あかいかさ、しろいかさ
[下校・雨・傘・紅白・教室の花瓶・花]
 Bは傘をなくしている。当然、終盤まで買わない。ギャルゲーだと、Aと相合い傘したいBが、わざと忘れてくる(乃至本当に傘がない)下校イベントが繰り返されるだろう。
 [雨・傘]で思い出すのは『ONE』の里村茜と『シンフォニック=レイン』と大島弓子の『綿の国星』の第一話冒頭の「春は長雨」と第四話のケープ。ケープはまあ母性なんで今は関係ない。『シンフォニック=レイン』はpiovaメーターなんてものがあるくらい大がかりだけど、茜同様に[雨・傘]はヴェールであり孤独のスイッチだ。『シンフォニック=レイン』の孤独はゲーム開始前に主人公が恋人を喪ってるとこから始まってるので、ゲーム中はずっと雨が降ってる。『ONE』はというと、想い人が消えてしまった里村茜が雨の日の空き地に突っ立ってて、茜にとっての雨、茜の視野は『シンフォクニック=レイン』の主人公のそれと全く同じなんだけど、浩平に乗り移ったPLから見ると茜が[雨]なんだ。茜の孤独も浩平の孤独もとっくに始まっているんだけど、ここにいるのにここにいない/何者かを想っている/空き地の少女である茜と同じ場にいることでPLの孤独は始められる。ギャルゲーだとそんな感じ。まあ好きに言ってるだけだけど。
 「あかいかさ、しろいかさ」の[雨・傘]は「秘めた想い・伝えられない想い」程度の使い方で、相合い傘で伝達経路確立と。実際は[花]を入れつつ少しねじ曲がっていて↓

女の子らしくありたいAが、Aの女の子らしさを指摘してくれるBを見出し、
→Bと関わりたいと思う(なぜなら自分が気持ちいいから。自分の少女らしさに酔いたいから)
→白い花を髪飾りのようにあて、鏡を見ているBを目撃、その姿・表情にうたれ、ときめくA(自分が少女として愛されるのでなく、自分が誰かを少女として愛する、初めての体験)
→自分の卑しさに気づいたAは傘もささず逃げるが、Bが追いつき相合い傘する

 という具合。登場人物にとっての百合の芽生えを描いたらしい。それはそれでいいけど、百合は前提なんで、乖離してる印象。百合未満の秘めた想いから始めるのではなく、普通に秘めた想いを[雨・傘]に託す方法は有効。相合い傘しながら、お互いが既に喪われた少女についてうだうだ語り出したら最高。
 [紅白]の使い方は少しまずい。そもそも色は抽象のまま使うべきじゃない。傘や花に付与して具象化してるけど、紅白の概念対立が安い。
 [教室の花瓶]はBに[花]を与えるための道具でしかないんだけど、これは失敗。掃除中に割っちゃ駄目。花瓶は割るためではなく、維持するためにある。美化委員とかが、誰も気づかないけど生けてるとか。で、美化委員たんがいなくなって初めて花がしおれてるとかですよ。あと教室の花瓶ていうと、弔いや不吉も入りますね(cf.『終ノ空』)。


 さて、この書き方だとどうも長くなるので、ここらでエントリー分けます。続きはまた明日。

2007年09月11日

レイ・ブラッドベリ『二人がここにいる不思議』

 桜庭の更新しなきゃいけないんだけど貸してて手元にないんですよ。
 リトバスの更新しなきゃいけないんだけどそれはもう自分にとっては一大作業なんで障壁が高いんですよ。

二人がここにいる不思議
レイ・ブラッドベリ『二人がここにいる不思議』

 おおむね短編幻想小説。ブラッドベリはSFも書いているらしいが、これは違う。
 正直言ってくだらない品が多い。悪くないのもあるが、その他大勢な感。
 読むべきは「ご領主に乾杯、別れに乾杯!」。
 「ご領主~」や「十月の西」など、スラップスティックが非常に小気味よい。「ご領主~」の文章のテンションは、邦訳を経てもなお異常。ご一読あれ。

 気になったのは「号令に合わせて」。
 これは父親に、侵すべからざる尊厳を踏みにじられた少年の話だ。血縁の悪しき権力が人の魂を損ない、他者がそれを知りながらも介入できない、ありふれたこの世の不条理の話だ。
 休暇をホテルで過ごす主人公は、ある父子を見つける。父親は息子にプールサイドで示威行進を強制している。「ワン、トゥー」と言われれば「スリー、フォア!」と叫び行進し、「止まれ!」と言われれば微動だにしてはいけない。これは訓練ではない。訓練には目的、より厳密には区切りがある。新兵養成所では新兵になるため、必要な規律と技術を教え込まれる。兵士になっても、身体能力を維持・向上させるためのトレーニングや、枝分かれした分野の訓練は継続される。与えられたメニュー、自ら設定するステップ、どれも等しく訓練だ。軍隊に限った話ではない。学業も仕事も趣味も、見える見えないは別として、区切りの連続だ。
 「号令に合わせて」の行進に区切りはない。終わりが設定されていない。シーシュポスの岩と同じ徒労。一つだけ違うのは、少年が誇りをもって行進していることだ。なんてこった。当然の帰結とはいえ、最悪だ。
 この不幸は父親の個人的資質、狂気がもたらしたものだが、彼は対話不能な、あからさまな狂人ではない。この部分的な狂気は、誰もがはらみうる、本当に怖ろしいものの一つだ。あってはならないことだが、権力がそれを可能にする。狂気が不幸を生むのではない。権力が狂気を生み、不幸を生む。
 不幸の終わりは父親の死によって訪れる。「止まれ」を命じたまま、足を滑らせプールに落ちた父親はそのまま溺死する。「休め」と命じられなかった少年は動くわけにはいかなかったのだ。この皮肉な構図は、いささか図式的で野暮ったい。天の采配と因果応報。父子に介入する者は結局あらわれなかった。父親の凶行を、目の前にある不幸を、どうにもできない不幸として扱うのは正しいか? この小説の倫理を問うこともできるが、後にしよう。どうにもできない不幸が起こってしまったし、それは終わったのだ。ひとまず。
 少年は大人になり、主人公の前に一度だけ姿をあらわす。彼は“明るいブルーの傷ついた目”をしていて、自分があれからどのように人生を歩んだかは語らずに去っていく。この処理は凡庸だが、野暮ではない。先述の不幸とその終わりの構図は俗で野暮だが、小説の締め方は野暮でなく、その隔たりに転倒力がある。「号令に合わせて」が気になった理由はだいたいそんなところだ。

 では、目の前にある不幸をどうにもできないものとするのは正しいか?
 もちろん間違っている。間違っていると言わなければならない。
 しかしやはり、現実的にはどうにもできない。不幸は石ころのように転がっていて、我々は身一つだ。誰かの人生を背負うことなどできないように、石ころを集め続けるわけにもいかない。誰もが線を引かなければならない。主人公はそれをした。父子の姿を、視界に入るならば見つめ続けた。これは苦渋の選択でもなんでもない。これが輝ける不幸の力なのだ。父子の抱えていた石ころは格別いびつに目映く、目を引いた。目を背けるか、離せないか、そのどちらかを選ばせた。しかし、石ころは石ころだ。人はそれをいつも忘れている。忘れないと身が持たない。だが知らないのは困る。ダイヤも石ころも鉛筆の芯も、大して違わないし、全然違う。
 フィクションは自由だ。主人公はこの世の人ではない。彼らは踏み込める。石ころを奪い取ることができる。その手触りは、重みは? 投げ捨てるのか、抱え続けるのか、加工するのか。それを見せつけられるのがフィクションの強みの一つだ。この武器をふるった作品に、もっと目鼻が効くようになればいいのだが。