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レイ・ブラッドベリ『二人がここにいる不思議』

 桜庭の更新しなきゃいけないんだけど貸してて手元にないんですよ。
 リトバスの更新しなきゃいけないんだけどそれはもう自分にとっては一大作業なんで障壁が高いんですよ。

二人がここにいる不思議
レイ・ブラッドベリ『二人がここにいる不思議』

 おおむね短編幻想小説。ブラッドベリはSFも書いているらしいが、これは違う。
 正直言ってくだらない品が多い。悪くないのもあるが、その他大勢な感。
 読むべきは「ご領主に乾杯、別れに乾杯!」。
 「ご領主~」や「十月の西」など、スラップスティックが非常に小気味よい。「ご領主~」の文章のテンションは、邦訳を経てもなお異常。ご一読あれ。

 気になったのは「号令に合わせて」。
 これは父親に、侵すべからざる尊厳を踏みにじられた少年の話だ。血縁の悪しき権力が人の魂を損ない、他者がそれを知りながらも介入できない、ありふれたこの世の不条理の話だ。
 休暇をホテルで過ごす主人公は、ある父子を見つける。父親は息子にプールサイドで示威行進を強制している。「ワン、トゥー」と言われれば「スリー、フォア!」と叫び行進し、「止まれ!」と言われれば微動だにしてはいけない。これは訓練ではない。訓練には目的、より厳密には区切りがある。新兵養成所では新兵になるため、必要な規律と技術を教え込まれる。兵士になっても、身体能力を維持・向上させるためのトレーニングや、枝分かれした分野の訓練は継続される。与えられたメニュー、自ら設定するステップ、どれも等しく訓練だ。軍隊に限った話ではない。学業も仕事も趣味も、見える見えないは別として、区切りの連続だ。
 「号令に合わせて」の行進に区切りはない。終わりが設定されていない。シーシュポスの岩と同じ徒労。一つだけ違うのは、少年が誇りをもって行進していることだ。なんてこった。当然の帰結とはいえ、最悪だ。
 この不幸は父親の個人的資質、狂気がもたらしたものだが、彼は対話不能な、あからさまな狂人ではない。この部分的な狂気は、誰もがはらみうる、本当に怖ろしいものの一つだ。あってはならないことだが、権力がそれを可能にする。狂気が不幸を生むのではない。権力が狂気を生み、不幸を生む。
 不幸の終わりは父親の死によって訪れる。「止まれ」を命じたまま、足を滑らせプールに落ちた父親はそのまま溺死する。「休め」と命じられなかった少年は動くわけにはいかなかったのだ。この皮肉な構図は、いささか図式的で野暮ったい。天の采配と因果応報。父子に介入する者は結局あらわれなかった。父親の凶行を、目の前にある不幸を、どうにもできない不幸として扱うのは正しいか? この小説の倫理を問うこともできるが、後にしよう。どうにもできない不幸が起こってしまったし、それは終わったのだ。ひとまず。
 少年は大人になり、主人公の前に一度だけ姿をあらわす。彼は“明るいブルーの傷ついた目”をしていて、自分があれからどのように人生を歩んだかは語らずに去っていく。この処理は凡庸だが、野暮ではない。先述の不幸とその終わりの構図は俗で野暮だが、小説の締め方は野暮でなく、その隔たりに転倒力がある。「号令に合わせて」が気になった理由はだいたいそんなところだ。

 では、目の前にある不幸をどうにもできないものとするのは正しいか?
 もちろん間違っている。間違っていると言わなければならない。
 しかしやはり、現実的にはどうにもできない。不幸は石ころのように転がっていて、我々は身一つだ。誰かの人生を背負うことなどできないように、石ころを集め続けるわけにもいかない。誰もが線を引かなければならない。主人公はそれをした。父子の姿を、視界に入るならば見つめ続けた。これは苦渋の選択でもなんでもない。これが輝ける不幸の力なのだ。父子の抱えていた石ころは格別いびつに目映く、目を引いた。目を背けるか、離せないか、そのどちらかを選ばせた。しかし、石ころは石ころだ。人はそれをいつも忘れている。忘れないと身が持たない。だが知らないのは困る。ダイヤも石ころも鉛筆の芯も、大して違わないし、全然違う。
 フィクションは自由だ。主人公はこの世の人ではない。彼らは踏み込める。石ころを奪い取ることができる。その手触りは、重みは? 投げ捨てるのか、抱え続けるのか、加工するのか。それを見せつけられるのがフィクションの強みの一つだ。この武器をふるった作品に、もっと目鼻が効くようになればいいのだが。