タカハシマコ『乙女ケーキ』

タカハシマコ『乙女ケーキ』(一迅社,2007)
随分前に『女の子は特別教』について書くよ~って言ったけど代わりにこれで。
百合の短編集です。とりあえずタイトルにめろめろ。乙女ケーキて! こうなんつぅか、ふんわりしてて、甘くて、白いんですよね! あと帯の推薦文が桜庭。すべてが媚び過ぎやろ、俺にたいして。
*これまでのタカハシ
BL出身の作者は、男性向け成年コミックにおいてアナーキーな鋭さを発揮してきた(『女の子は特別教』『水色ノート』『冷たいお菓子』)。女性キャラの魅力を引き出し、ポルノ描写の扇情性を実現するための逆算を経糸に、成年コミックは秩序立つ。その身勝手さを暴き立てる(まったく大きなお世話だが)、毒のある短編がタカハシの強みだった。内面のある、傷つく主体や既に傷ついた主体として少女を描いたり(これは普通)、白痴のように何をされているか理解しない少女を描くことで(これが偉い)、成年コミック特有の因果関係の不条理を露呈させ、押し進めた。
ふーん、て感じですね。
*『乙女ケーキ』感想
マンガとしては、それほど感心しない。テーマを先取りするような、強引に文脈を絞っていくような、急いたセリフが厭らしく、説得力がない。きたならしく、有り体に言えばへたくそだ。
直接的な原因は明白だ。作者が百合に慣れていない。作者はあとがきでこう語っている。
百合まんがはフダンより更にひどく長時間なやむので(中略)
「この感情は百合だ。」と、私の中で思うものを探す旅(脳内)に時間をものすごく使ってしまったの原因です。
つまり固くなっている。論理をどれほど重ねても、前提を間違えれば結論も間違う。百合という系を勘違いすると(例えば問題系であるかのように)、こういうことが起こる。百合はカオスではないが、連立二次方程式ほど単純でもない。
この失敗の根底には、政治的な要因がある。お手本となるドラマツルギー(ドラマの製作手法)が策定されていれば、考慮しなくていいことに気を取られることなく、作家のリソースは効率的に運用され、失敗は減り、品質も上がる。作り手の「批評的」思考など、害悪でしかない。ただひたすらに忠実であればいい。そのためのドラマツルギーは、まだきちんと整備されていない。ジャンル固有の文脈の発展と蓄積が本格的に始まるのはこれからだ。コミックスにおいて百合の専門誌ができたのは、2003年(『百合姉妹』マガジン・マガジン)のことだ。諸々裾野は広がっているが、専門誌はというと目下『コミック百合姫』(季刊)『コミック百合姫S』(2007.6~ おそらく季刊)の二誌のみだ(いずれも一迅社)。つまり、何が言いたいかというと、「バカがっ・・・・・・! 足らんわっ・・・ まるで・・・!!」
*『乙女ケーキ』をダシにぐだぐだ
百合の先輩はBLだが、タカハシマコの出身もBLだ。彼女のBL単行本(『泣いちゃいそうよ。』『ドーナツ通信』など)を読むと、殆どの作品が「キスをしてハッピーエンド」である。すれ違いつつも、思いを通じ合えた、めでたしめでたしである。これは「強姦されてハッピーエンド」の後退した変奏に過ぎないが、経済的でよろしい、と褒めておく。
ではタカハシの百合はどうなったか。意匠を抜き出しながら、百合のありうべきドラマを探ってみる。
決まり事として、百合に必ず出てくるつがいの少女のうち、主人公をA、片割れをBとする。
○あかいかさ、しろいかさ
[下校・雨・傘・紅白・教室の花瓶・花]
Bは傘をなくしている。当然、終盤まで買わない。ギャルゲーだと、Aと相合い傘したいBが、わざと忘れてくる(乃至本当に傘がない)下校イベントが繰り返されるだろう。
[雨・傘]で思い出すのは『ONE』の里村茜と『シンフォニック=レイン』と大島弓子の『綿の国星』の第一話冒頭の「春は長雨」と第四話のケープ。ケープはまあ母性なんで今は関係ない。『シンフォニック=レイン』はpiovaメーターなんてものがあるくらい大がかりだけど、茜同様に[雨・傘]はヴェールであり孤独のスイッチだ。『シンフォニック=レイン』の孤独はゲーム開始前に主人公が恋人を喪ってるとこから始まってるので、ゲーム中はずっと雨が降ってる。『ONE』はというと、想い人が消えてしまった里村茜が雨の日の空き地に突っ立ってて、茜にとっての雨、茜の視野は『シンフォクニック=レイン』の主人公のそれと全く同じなんだけど、浩平に乗り移ったPLから見ると茜が[雨]なんだ。茜の孤独も浩平の孤独もとっくに始まっているんだけど、ここにいるのにここにいない/何者かを想っている/空き地の少女である茜と同じ場にいることでPLの孤独は始められる。ギャルゲーだとそんな感じ。まあ好きに言ってるだけだけど。
「あかいかさ、しろいかさ」の[雨・傘]は「秘めた想い・伝えられない想い」程度の使い方で、相合い傘で伝達経路確立と。実際は[花]を入れつつ少しねじ曲がっていて↓
女の子らしくありたいAが、Aの女の子らしさを指摘してくれるBを見出し、
→Bと関わりたいと思う(なぜなら自分が気持ちいいから。自分の少女らしさに酔いたいから)
→白い花を髪飾りのようにあて、鏡を見ているBを目撃、その姿・表情にうたれ、ときめくA(自分が少女として愛されるのでなく、自分が誰かを少女として愛する、初めての体験)
→自分の卑しさに気づいたAは傘もささず逃げるが、Bが追いつき相合い傘する
という具合。登場人物にとっての百合の芽生えを描いたらしい。それはそれでいいけど、百合は前提なんで、乖離してる印象。百合未満の秘めた想いから始めるのではなく、普通に秘めた想いを[雨・傘]に託す方法は有効。相合い傘しながら、お互いが既に喪われた少女についてうだうだ語り出したら最高。
[紅白]の使い方は少しまずい。そもそも色は抽象のまま使うべきじゃない。傘や花に付与して具象化してるけど、紅白の概念対立が安い。
[教室の花瓶]はBに[花]を与えるための道具でしかないんだけど、これは失敗。掃除中に割っちゃ駄目。花瓶は割るためではなく、維持するためにある。美化委員とかが、誰も気づかないけど生けてるとか。で、美化委員たんがいなくなって初めて花がしおれてるとかですよ。あと教室の花瓶ていうと、弔いや不吉も入りますね(cf.『終ノ空』)。
さて、この書き方だとどうも長くなるので、ここらでエントリー分けます。続きはまた明日。
