『ぽてまよ』と母性およびディスコミュニケーション
今日は森田季節氏より原稿をいただいたので、アップします。
それではどうぞ。
『ぽてまよ』と母性およびディスコミュニケーション 森田季節
2007年第三四半期は、京アニの『らき☆すた』はじめ、なのは3期、絶望先生・グレンラガンなど重要作品がことごとく終わった。そのなかで、そういったメジャータイトルと比べると地味に『ぽてまよ』も1クールの幕を閉じた。
正直、上にあげたような作品はさんざんウェブ上でもいろんな意見が書き散らされるだろうが、『ぽてまよ』はそのまま忘れられそうな予感大である。なので、備忘録的に『ぽってまよ』がいかに重要な作品だったかつけておこうと思う。なお、漫画のほうをまだ買ってないのでアニメだけで語ります。
まず、『ぽてまよ』は高校生のクラスメイトたちを中心としたやりとりの中に、「ぽてまよ」(および、ぐちゅ子)という2頭身の変な生き物が入ってくるコメディアニメだ。普通の学園生活に異物が混入するスラップスティックコメディというのは、ギャグ漫画やコメディ漫画の典型の一つだと思うが、『ぽてまよ』もその一作に数えて問題ない。
ここ近年、そういったコメディ設定を軸に物語を展開した作品としては、『吉永さん家のガーゴイル』があげられる。『ガーゴイル』が優れた作品であることはどっかで書いたと思うが、それに負けず劣らず『ぽてまよ』もよい。以下、重要な要素である‘すれ違い‘をもとに話を進めていく。その点にしぼったのは、作品全体を包括した論を書けるほどの能力がないためでもあるが、やはりこの作品の核となる部分が‘すれ違い‘ にあると考えるためである。
まず、『ぽてまよ』のアニメを見て最初に目にするものは何か。もちろんOPだ。あ、別にギャグではありませんよ。OPの歌詞がまさにこの作品の主題をもう語ってしまっているのだ。この主題歌のタイトルは「片道きゃっちぼーる」(唄:MOSAIC.WAV)だが、これはボールを投げても何も返ってこない、投げっぱなし状態のことで、もろにディスコミュニケーションの暗喩である。この曲は全篇通じて形の整わない折り紙とか、結び方のよくわからない赤い糸とかコミュニケーションの不都合をあらわす比喩表現で埋め尽くされている。というか、歌詞のなかに「ディスコミュニケーション」とか「かみあわない」とか言ってしまっている。で、この曲の主題は最終的に、この世はコミュニケーションの難しい「ズレた世界」だけど、ズレたまま仲良くやっていけばいいだろうという結論で終わる。むしろ、ズレを修正しようとする行為にははっきりとは書かれていないが、否定的なニュアンスが強い。ここまでアニメの主題と一致した歌詞の曲をOPに持ってくる時点で、製作側のそつのなさを感じる。OPやEDまで含めて完全に作品の一部になっているのだ。(註1)
ではディスコミュニケーションが作中ではどう扱われるのか。多くのコメディと同じように、『ぽてまよ』でも作中のキャラがほかのキャラを一方的に好きになって報われないという視点がよく見られる。これはクラスメイト同士での恋愛のベクトルだけではない。もっと広い意味での人間関係の緊張とか対立を含む。
たとえば主人公の森山素直(すなお)は父の皇大(こうだい)のどこか破天荒な性格をかなり嫌っており、しばしば父親を殴る描写がある。基本的にクールで、明らかに自分に好意を持ってることがわかるみかんというクラスメイトの女子にすら一貫して中立的な態度しか示さない素直が、父親にだけははっきりと不快感を表明する。このことはアニメのラストのほうでなされた、素直の母親(つまり皇大にとっては妻にあたる)の死の話ともリンクしている。母親の死のとき、皇大は研究先の外国から帰るも間に合わず、素直母親の死を一人で看取る。このような描写にも、作品の底を流れるテーマである‘すれ違い‘が現われている。
皇大は妻をないがしろにしたわけではない。純粋に間に合わなかったのだ。だが、だからこそその罪は深いともいえる。ディスコミュニケーションというのは利害的対立にある人間に対して言われる言葉ではない。それは単なる対立そのものだ。コミュニケーションをしようという意思があるにもかかわらず、関係がうまく運ばないこと、それがディスコミュニケーションのはずだ。実際、作中の人物は基本的に善人で、悪意が行動原理になっているわけではない。にもかかわらず、ぐちゅ子が自分を世話してくれる高見盛京のお礼に、豚の頭を切り取ったものや牛の死体をプレゼントしてしまうことに代表されるように、しばしば善意は大きなお世話になってしまう。
それは主人公の父子関係においてもそうで、父親皇大の過剰なスキンシップは素直にとって鬱陶しいものでしかない。皇大は普段は外国で仕事をしており、我が子と会える時間は限られている。まして子供には母親がいない。そういった設定を踏まえると、皇大の子をかまうのは多少は冗談半分のところがあっても、子を想う真面目なものだ。だが、素直はそれを受け入れることができず、父親を殴る。最終的にはそのことをみかんに咎められ、父親と和解するのだが、明らかにこの父子の和解がこのアニメが描こうとしたものの一つに思えてならない。
無論、ほかのキャラの間でもディスコミュニケーションはついてまわる。ヒロインにあたる夏みかんは主人公の素直に恋心を抱いている。割と露骨なのでさすがに素直も気づいているのではと思うが、正面から告白されてないからなのか、何の反応も示さず、結局最終話まで恋愛が終わることも始まることもなかった。本編途中からは重度のシスコンの弟の夏哉純(なつ やすみ)が転入してくる。彼は素直と姉の仲が進展しないよう、妨害を行おうとするが根が善人のため、「していま一つ冷たい態度に徹することができない。結果的に素直からは「いい奴」と思われている(wikiより引用)」。また、この哉純は関とまりという小学五年生の女子からひょんなことから好かれるようになる。このようにボールの返ってこない片思いが連鎖し続ける。
一方で、マスコットキャラにあたるぽてまよ(註2)のことを愛しているキャラもちゃんといる。素直のクラスメイトの桐原無道は小動物的なかわいがり方ではなく恋愛感情を持っているが、非常にぽてまよからは嫌われている。渾身の思いで出したラブレターは誤って春日乃ねねに届いてしまい、以後彼女になかば奴隷的に使役されることになる。また、この桐原によく行動を共にしてる初芝薫(注意 男)は惚れており、薔薇な関係である。まあ、そんな恋は成就しないが。
同じくクラスメイトの高見盛京はぐちゅ子というぽてまよ同様の奇妙な生物に優しく接し、やがてぐちゅ子は高見盛家の木の上を寝床にするようになる。しかし、ぐちゅ子はお菓子をもらったお礼として牛の死体や豚の死体をそっと置いていくことはあっても、それ以上のコミュニケーションを誰ともとろうとせず、基本的に孤高を保っている。高見盛家は一家揃ってぐちゅ子に寛容で、彼女?(註3)がガラスを割っても怒ったりせず、逆に家に入れようとするくらいだ。それをぐちゅ子が拒むと、今度は犬小屋のようなものを作って住まわせようとする。ぐちゅ子は雨風が吹いても小屋に入るのを潔しとしない。
さて、主人公の素直自体は自分が育てることになったぽてまよとどう接しているのか。彼はぽてまよに対して見事な親として振舞う。厳しすぎず、甘やかしすぎず、何かしつけるときには理由を教え、理不尽な態度を決してとることがない。おむつを替えるような汚い仕事も嫌な顔一つしない。話の序盤では父親も帰ってきていないので、素直は一人暮らしの高校生である。その境遇で彼が理想的な親として接するのは、彼が自分が獲得できなかった理想的な親子を無意識に求めていることにほかならない。彼はほとんど感情を表に出さないが、逆に彼が恋い慕うものが垣間見えてやるせない。ただ、そんな彼が唯一心から微笑むシーンがある。それはぽてまよとほお擦りするシーンだが、一番典型と言えるのがEDのラストの場面である。このとき、彼の表情は見る者に母性を感じさせる。それは彼が幼くして最期を看取った母親に共通するものだ。そもそも、スカートをはかないといけなくなる回があるくらいに、彼は見た目からして中性的であり、父性を感じさせる要素が少ない。それは彼が失った母親像を追い続けている証左である。しかし、そういった素直の欲望は彼のクールな表情からはほとんど漏れ出てこない。そのギャップが素直を主人公としてとても魅力的な人格にしている。
このように『ぽてまよ』では関係性の軸は必ずずれてすれ違う。明確な好意の表明すら、キャラクターを幸せにはしない。桐原のラブレターの伝達ミスが象徴するように、思いは届けたい相手には届かないのだ。『ぽてまよ』はそのディスコミュニケーションをほどよくのんびりした空気でコメディに仕立てているから、ちょうど見ている側に心地よい。これが『らんま』みたいな過剰なアクション展開があると、読者が疲れただろう。
タイトルこそ『ぽてまよ』だが、人でないこの生き物がほかのキャラをふりまわすこともなく、延々と日常のうちのちょっとかわった体験――墓参りとか誕生日会とか写生大会とか――が語られる。だから読者は肩の力を入れずに作品を見れるのだが、その底には予想以上に複雑な素直の心の動きがある。それをてらいなく表現したところが、『ぽてまよ』の良作たる所以なのだ。
最終話でも素直は厳密には父親の皇大を許したわけではない。だが、彼は父親という自分と異質な個性を認める。違いそのものを受け入れること、それがコミュニケーションに一番大切なものだ。キャッチボールは相手に投げる場所を厳密に指定してやるものではない。少し横にそれたり、ワンバウンドになったりすることがあってもそれを許容する心が必要になる。
最終話で、ぽてまよとぐちゅ子はそれぞれ自分の花からできた種から自分と性格が真逆の子供を生む。素直と高見盛京はそれぞれの子供を躊躇なく受け入れる。これは素直が父親との葛藤を乗り越え、親となる側にまで成長したことを暗示させる。もはや彼にとって母親は追いかけるものではなく、自分自身に体現されるものになった。彼は新たに生まれた子供を胸に抱きかかえつつ、父親としても正しくしつけるだろう。ストーリーのラストで素直は子供を卒業し、正真正銘の親となる。
ギャグを基本にしつつ、主人公の成長を正面から描いた、それだけのことができた作品は冷静に振り返るとほとんどない。だからこそ、『ぽてまよ』は優れた作品なのだ。なんか堅苦しいことを長々と書いてきたが、このアニメは本当に気軽に見れて楽しい。スラップスティックでいて道徳的にもとても筋が通っている。こういうのこそ、子供が見る時間帯にすべきなんじゃないかと思う。というわけで、私は『ぽてまよ』を応援する。これで作品に興味を持ってくれる人が一人でも増えれば幸いである。
(註1)まあ、ある意味『らき☆すた』もEDは作品の一部だと言えると思うが、ちょっと意味が違うと思う。まあ、そもそも最近の(別に最近になって急にそう変化したという意味ではない)邦楽の歌詞は具体性がないものが多く、なんとなく頑張ってたり、戦ってたり、努力してたりすることが伝わるだけなので、作品とリンクしてるのか判断のしようがないのだが。中川翔子や水樹奈々の歌詞を想起してほしい。極めて抽象的なことに気づくはずだ。
(註2)広義では、一応人間ではないぽてまよとぐちゅ子も美少女キャラに入るのだろうが、さすがに2頭身なので、ヒロインではなくマスコットとしておく。
(註3)女っぽいが性別は本編では不明である。ぽてまよ同様、花が頭から咲いたので、どちらか判断する次元ですらないかもしれない。ただ、見た目は女の子であろうと思う。
