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2007年12月01日

『もっけ』が終わるとき

森田季節氏から原稿をいただきました。
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 テレビ版の『もっけ』を見ていて、あらためてこの作品の特徴がはっきりと出た気がした。以下、つらつらと書くのは至極当然のことだ。つまり、『もっけ』の主題は子供が(とくに母)親から切り離され、外界に出て行くものだということを述べる。
 まず、親といっても『もっけ』には、主人公の二人の娘、瑞生・静流の両親はあまり出てこない。これは設定上、祖父母の家で育てられているから当然なのだが、もちろんここから親がたいしたウェイトを占めてないなんてことにはならない。両親の役割はじいさんとばあさん(以下、このように表記する)が引き受ける。これも当たり前だ。物語は違うモチーフを使って、言いたいことを偽装する、あるいは隠蔽する。そもそも正面切って親から「子供が切り離されて成長していく話」を持ち出しても、あんまりエンターテインメントにならない。いや、なるかもしれないけど。とにかくじいさん・ばあさんが『もっけ』の鍵だ。お化けや妖怪を扱っていながら、お化けや妖怪のの重要性は明らかに低い。
 さて、その両親役を担う老年の二人についてだ。ここで注意したいのは、ばあさん=母親というような単純な分担はなされてないということだ。見てれば誰でも気づくが、ばあさんよりはるかにじいさんの意義のほうがどうしたって、でかい(そもそもばあさんは途中で亡くなる)。その影響は役割分担においても現れている。もったいぶることでもないので書いてしまうと、じいさんは母性の一部ともいうべきものを二人に与えている。だからといって、このじいさんはかなり厳格でろくに笑いもしないのだが、この点は重要だ。これについては娘二人とのかかわりで後述する。

 では以後、この誤読めいた説を補強していきたい。結局、誤読だったら謝るが、まあ誰かが言ったように誤読可能性のあるテキストこそすぐれたテキストである所以なので、それだけ『もっけ』がすぐれた作品なんだなと思って許して頂きたい。
 まず、主人公の姉妹の特徴について確認しておく。
妹の瑞生=お化けが憑く
姉の静流=お化けが見える
 以上。この特徴の違いは、個人的に非常に重要だ。少なくとも逆であってよいものじゃない。
 最初に妹から話す。エンターテインメントとして見れば、憑くほうが話は圧倒的に動かしやすいから、妹の瑞生のほうが話の主になることは多い(と思う。ちゃんと統計とってないけど)。ここでもう一度だけ繰り返すと、瑞生はお化けの存在が見えない。にもかかわらず、とりついたお化けは瑞生に影響を与える。ここに、じいさんが絡んで、あるときは助けてくれ、あるときは自分でなんとかしろと突き放し、あるときはそもそもじいさんが不在なので自分でなんとかするしかないというのが『もっけ』の代表的ストーリーラインの一つだ。
 憑く側は善人?であることもあれば悪人?であることもある。ただし、憑く側自体に善意や悪意があるかはわからない。お化けの世界のことは、読者側も筋道を立てて黒白をつけることができない。それは異界の存在だからだ。しかし、瑞生になんらかの心理的変容を与えることは共通している。この変容が作品の肝と言っていい。これで瑞生が成長しなかったら『もっけ』はたんなる秀逸なお化け漫画・アニメで片づけられることだろう。
 では、成長っていったい何か。それは大人になるということとだいたい同じだ。では大人になるとはどういうことか。それはいいこと、悪いこともたくさん見ることによって、自分に降りかかってくる物事に適切に対処できるようになることだ。子供はそれができないので、新しい環境に放り出されれば困惑する。たとえば迷子になれば立ち止まって泣いてしまう。あるいは過剰に反応する。たとえば戦争みたいな社会悪・絶対悪を見ると激烈に憎んだりする。だが、大人はテレビで戦争を知って激怒したりまではそんなにしないし、迷子になっても地図を探したり、人に聞いたりして対処する。つまり経験値が自分の行動を安定させている。それによって新たな外圧に対応できる。で、ほとんど答えを言ってしまっているが、お化けとはまさに瑞生にとっての外圧じゃないか。
 ここで一面的なきらいはあるが、仮にお化け=社会に渦巻いている悪意と置く。お化けにだってイイモンもいればワルモンもいると思うが、イイモンだけでは『もっけ』の話も成り立たないし、そもそもこの論考にとって不都合なので。
 瑞生は外出するたびにお化け=悪意に憑かれるのではないかと警戒しなければならない。それは毎日の通学路さえ、遠回りして通わなければならないときがあるくらい徹底している。
 それでも、ときにはお化け=悪意に憑かれてしまう。このとき、彼女を助けてくれるのはじいさんにほかならない。藤井氏が「中二病すれすれ」と表現するほど、極めて厳格というか堅物なじいさんだが、いざ彼が動き出すとお化けは確実に祓われ、打ち負ける。じいさん自身は漫画版「オクリモノ」において「俺らは奴らと交渉する立場なんだ 拝んで離れて戴くんだよ 誰でも彼でも祓える様な大層な身分じゃねえ」と言っているように、自身の限界を語っているが、それでも作中でじいさんが敗れることはない。お化けに対して、じいさんは完全無欠で全能な存在として表現される。ここに、じいさんに母性があると前述した理由がある。
 じいさんはある種相当な偏屈な男で、「中二病すれすれ」の論理を持ち出し、瑞生らを突き放すが、それでも彼にそれなりの説得力があるのは、その圧倒的な力にほかならない。じいさんが尻を浮かすことは、黄門様の印籠のようなものだ。どんな厄介な悪意がやってきても、じいさんの力に頼れば必ず祓われる。これは赤ん坊が母親に対して抱く全幅の信頼と呼応する。彼らの住んでいる家、つまりじいさんのいる環境は瑞生にとっていわば母胎にあたる。このなかにいて、彼女が何者かに害されることはない。温厚なばあさんや姉、飼い猫と静かに生きることができる。外から悪意が家めがけてやってくることは構造上ありえない。
 しかし、じいさんはドラえもんのように泣きついてきた彼女をほいほいと助けてくれるわけではない。不用意な結果で招いた事態や、小規模な不都合は「大した傷じゃねェ 手前(テメエ)で嘗めて治せ」と突っぱねる。これはじいさんが父性も兼ね備えていることを意味する。母性が包み込む愛であるのに対し、父性は切り離す力を子供に教える。瑞生はじょじょにじいさんから距離をとりながら、困難に立ち向かう。それが『もっけ』という作品の大きな行動指針である。アニメでは早めに放映されたが、瑞生がじいさんと遠く離れた就学旅行に出かけ、危機を一人で辛くも回避する「ヤマウバ」が漫画版では瑞生が中学生になる31話の三話前の28話という位置にあるのも偶然ではない。これを一巻や二巻の段階で表現することは瑞生の成長の段階からして不可能だ。

 さて、瑞生は小学生から中学生になるまで成長し、その成長はまだ続いている。もちろん姉の静流も同様だ。静流の場合は、全寮制の高校に入学するという極めて明確な切り離し方法がとられる。ここでは主に瑞生との違いについて書く。つまり、「見える」と「憑かれる」の違いだ。
 これは静流の中学生という登場時の立場が影響している。小学生の瑞生と比べ、年齢的にも成熟している静流は、お化け=悪意を「見る」ことができる。「見る」とは悪意を客観的に認識できることを意味する。だから、見れない瑞生と比べると静流は自身が悪意にさらされることが少なく、むしろ悪意にとり憑かれている周囲の人間にたいして心を痛める。しかし、彼女自身には悪意に対抗するだけの能力はなく、解決をじいさんに頼ることになる。それは中学生の彼女の限界を示している。悪意を察知し、それから距離を置くことはできても、主体的に悪意を除くまでには至らない。逆に言えば、彼女が全寮制の高校に進学することを決めるのは、彼女が大人としての成熟の道を選んだことを意味する。今後、彼女が主体的にお化け=悪意を祓う話が生まれることは十分ありうるだろう。これは、「見える」人間に課せられた責任である。子供より多くのものを見てきたからこそ、大人には判断に責任が要求される。漫画版9話の「ミコシ」のじいさんの言葉がそれをよく示している。
「……いいか静流 ただ見えるだけでは徒に不安が増すばかりだ 見えるという事がどういう事か見えているモノは何なのか 御前はそれを先人の知より学びそして自ら考えていかねばならない」
 これは大人と子供の宿題の違いだ。瑞生にとって課題なのは「見る」ことだが、静流には一段階上の課題が与えられている。だからこそ、『もっけ』は姉妹の物語でなければならなかった。一人っ子だったら、こうした対比を表現することはとても難しくなっただろう。

 以上、早足で強引な誤読を展開してきた。最後だし、繰り返す。『もっけ』は姉妹二人が母性から切り離され、成長していく物語である。この切り離しは残酷なまでに徹底している。ばあさんが作中の途中で亡くなるのなど、その典型だろう。『もっけ』は某海鮮家族みたいに同じ年齢で永遠に生き続けるタイプの作品ではない。時間は止まらず経過し続ける。彼女らはキャラクターの死という物語の暴力さえ使われて、自立した大人になることを強制される。『もっけ』の読者は彼女二人の成長を見守るスポンサーなのかもしれない。
 さて、タイトルに「『もっけ』が終わるとき」と書いたが、これはどういうことか。ちっともそんなことに言及してないじゃないかと思われるかもしれない。本来、時間が流れるタイプの作品では、主人公が学校を卒業すると同時に物語も幕となる。大学生版『あずまんが大王』も社会人版『げんしけん』もオリジナルでは存在しないのだ。しかし、『もっけ』は姉妹がそれぞれ中学校と小学校を卒業したのに話が続いてしまった。この場合、いつ終わるのだろうか?
 たぶん外れると思うが、予想を一つしてこの誤読も幕としたい。それはじいさんが死ぬときではないだろうか。じいさんが亡くなったとき、姉妹二人にはついに頼るものがなくなる。その離陸が成功だろうと失敗だろうと、彼女たちは後戻りのない巣立ちを体験する。それ以上の母性からの距離のとり方はないので、物語は継続できない。そんなわけでこの論考の論理のままでいけば、一応筋は通っていると思うのだが、どうだろうか? そんな悲しいラストは問題だという声もあるかもしれないが、心配しなくてもいい。彼女たちの行く末を見守ってくれる心優しい読者がたくさんいるじゃないか。そう、あなたもです。『もっけ』の読者は姉妹二人を保護する義務を負う。だから、僕らは読者をやめることができない。みんな、大人の目で彼女たちを見守っていこうではありませんか。