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2007年12月01日

『もっけ』が終わるとき

森田季節氏から原稿をいただきました。
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 テレビ版の『もっけ』を見ていて、あらためてこの作品の特徴がはっきりと出た気がした。以下、つらつらと書くのは至極当然のことだ。つまり、『もっけ』の主題は子供が(とくに母)親から切り離され、外界に出て行くものだということを述べる。
 まず、親といっても『もっけ』には、主人公の二人の娘、瑞生・静流の両親はあまり出てこない。これは設定上、祖父母の家で育てられているから当然なのだが、もちろんここから親がたいしたウェイトを占めてないなんてことにはならない。両親の役割はじいさんとばあさん(以下、このように表記する)が引き受ける。これも当たり前だ。物語は違うモチーフを使って、言いたいことを偽装する、あるいは隠蔽する。そもそも正面切って親から「子供が切り離されて成長していく話」を持ち出しても、あんまりエンターテインメントにならない。いや、なるかもしれないけど。とにかくじいさん・ばあさんが『もっけ』の鍵だ。お化けや妖怪を扱っていながら、お化けや妖怪のの重要性は明らかに低い。
 さて、その両親役を担う老年の二人についてだ。ここで注意したいのは、ばあさん=母親というような単純な分担はなされてないということだ。見てれば誰でも気づくが、ばあさんよりはるかにじいさんの意義のほうがどうしたって、でかい(そもそもばあさんは途中で亡くなる)。その影響は役割分担においても現れている。もったいぶることでもないので書いてしまうと、じいさんは母性の一部ともいうべきものを二人に与えている。だからといって、このじいさんはかなり厳格でろくに笑いもしないのだが、この点は重要だ。これについては娘二人とのかかわりで後述する。

 では以後、この誤読めいた説を補強していきたい。結局、誤読だったら謝るが、まあ誰かが言ったように誤読可能性のあるテキストこそすぐれたテキストである所以なので、それだけ『もっけ』がすぐれた作品なんだなと思って許して頂きたい。
 まず、主人公の姉妹の特徴について確認しておく。
妹の瑞生=お化けが憑く
姉の静流=お化けが見える
 以上。この特徴の違いは、個人的に非常に重要だ。少なくとも逆であってよいものじゃない。
 最初に妹から話す。エンターテインメントとして見れば、憑くほうが話は圧倒的に動かしやすいから、妹の瑞生のほうが話の主になることは多い(と思う。ちゃんと統計とってないけど)。ここでもう一度だけ繰り返すと、瑞生はお化けの存在が見えない。にもかかわらず、とりついたお化けは瑞生に影響を与える。ここに、じいさんが絡んで、あるときは助けてくれ、あるときは自分でなんとかしろと突き放し、あるときはそもそもじいさんが不在なので自分でなんとかするしかないというのが『もっけ』の代表的ストーリーラインの一つだ。
 憑く側は善人?であることもあれば悪人?であることもある。ただし、憑く側自体に善意や悪意があるかはわからない。お化けの世界のことは、読者側も筋道を立てて黒白をつけることができない。それは異界の存在だからだ。しかし、瑞生になんらかの心理的変容を与えることは共通している。この変容が作品の肝と言っていい。これで瑞生が成長しなかったら『もっけ』はたんなる秀逸なお化け漫画・アニメで片づけられることだろう。
 では、成長っていったい何か。それは大人になるということとだいたい同じだ。では大人になるとはどういうことか。それはいいこと、悪いこともたくさん見ることによって、自分に降りかかってくる物事に適切に対処できるようになることだ。子供はそれができないので、新しい環境に放り出されれば困惑する。たとえば迷子になれば立ち止まって泣いてしまう。あるいは過剰に反応する。たとえば戦争みたいな社会悪・絶対悪を見ると激烈に憎んだりする。だが、大人はテレビで戦争を知って激怒したりまではそんなにしないし、迷子になっても地図を探したり、人に聞いたりして対処する。つまり経験値が自分の行動を安定させている。それによって新たな外圧に対応できる。で、ほとんど答えを言ってしまっているが、お化けとはまさに瑞生にとっての外圧じゃないか。
 ここで一面的なきらいはあるが、仮にお化け=社会に渦巻いている悪意と置く。お化けにだってイイモンもいればワルモンもいると思うが、イイモンだけでは『もっけ』の話も成り立たないし、そもそもこの論考にとって不都合なので。
 瑞生は外出するたびにお化け=悪意に憑かれるのではないかと警戒しなければならない。それは毎日の通学路さえ、遠回りして通わなければならないときがあるくらい徹底している。
 それでも、ときにはお化け=悪意に憑かれてしまう。このとき、彼女を助けてくれるのはじいさんにほかならない。藤井氏が「中二病すれすれ」と表現するほど、極めて厳格というか堅物なじいさんだが、いざ彼が動き出すとお化けは確実に祓われ、打ち負ける。じいさん自身は漫画版「オクリモノ」において「俺らは奴らと交渉する立場なんだ 拝んで離れて戴くんだよ 誰でも彼でも祓える様な大層な身分じゃねえ」と言っているように、自身の限界を語っているが、それでも作中でじいさんが敗れることはない。お化けに対して、じいさんは完全無欠で全能な存在として表現される。ここに、じいさんに母性があると前述した理由がある。
 じいさんはある種相当な偏屈な男で、「中二病すれすれ」の論理を持ち出し、瑞生らを突き放すが、それでも彼にそれなりの説得力があるのは、その圧倒的な力にほかならない。じいさんが尻を浮かすことは、黄門様の印籠のようなものだ。どんな厄介な悪意がやってきても、じいさんの力に頼れば必ず祓われる。これは赤ん坊が母親に対して抱く全幅の信頼と呼応する。彼らの住んでいる家、つまりじいさんのいる環境は瑞生にとっていわば母胎にあたる。このなかにいて、彼女が何者かに害されることはない。温厚なばあさんや姉、飼い猫と静かに生きることができる。外から悪意が家めがけてやってくることは構造上ありえない。
 しかし、じいさんはドラえもんのように泣きついてきた彼女をほいほいと助けてくれるわけではない。不用意な結果で招いた事態や、小規模な不都合は「大した傷じゃねェ 手前(テメエ)で嘗めて治せ」と突っぱねる。これはじいさんが父性も兼ね備えていることを意味する。母性が包み込む愛であるのに対し、父性は切り離す力を子供に教える。瑞生はじょじょにじいさんから距離をとりながら、困難に立ち向かう。それが『もっけ』という作品の大きな行動指針である。アニメでは早めに放映されたが、瑞生がじいさんと遠く離れた就学旅行に出かけ、危機を一人で辛くも回避する「ヤマウバ」が漫画版では瑞生が中学生になる31話の三話前の28話という位置にあるのも偶然ではない。これを一巻や二巻の段階で表現することは瑞生の成長の段階からして不可能だ。

 さて、瑞生は小学生から中学生になるまで成長し、その成長はまだ続いている。もちろん姉の静流も同様だ。静流の場合は、全寮制の高校に入学するという極めて明確な切り離し方法がとられる。ここでは主に瑞生との違いについて書く。つまり、「見える」と「憑かれる」の違いだ。
 これは静流の中学生という登場時の立場が影響している。小学生の瑞生と比べ、年齢的にも成熟している静流は、お化け=悪意を「見る」ことができる。「見る」とは悪意を客観的に認識できることを意味する。だから、見れない瑞生と比べると静流は自身が悪意にさらされることが少なく、むしろ悪意にとり憑かれている周囲の人間にたいして心を痛める。しかし、彼女自身には悪意に対抗するだけの能力はなく、解決をじいさんに頼ることになる。それは中学生の彼女の限界を示している。悪意を察知し、それから距離を置くことはできても、主体的に悪意を除くまでには至らない。逆に言えば、彼女が全寮制の高校に進学することを決めるのは、彼女が大人としての成熟の道を選んだことを意味する。今後、彼女が主体的にお化け=悪意を祓う話が生まれることは十分ありうるだろう。これは、「見える」人間に課せられた責任である。子供より多くのものを見てきたからこそ、大人には判断に責任が要求される。漫画版9話の「ミコシ」のじいさんの言葉がそれをよく示している。
「……いいか静流 ただ見えるだけでは徒に不安が増すばかりだ 見えるという事がどういう事か見えているモノは何なのか 御前はそれを先人の知より学びそして自ら考えていかねばならない」
 これは大人と子供の宿題の違いだ。瑞生にとって課題なのは「見る」ことだが、静流には一段階上の課題が与えられている。だからこそ、『もっけ』は姉妹の物語でなければならなかった。一人っ子だったら、こうした対比を表現することはとても難しくなっただろう。

 以上、早足で強引な誤読を展開してきた。最後だし、繰り返す。『もっけ』は姉妹二人が母性から切り離され、成長していく物語である。この切り離しは残酷なまでに徹底している。ばあさんが作中の途中で亡くなるのなど、その典型だろう。『もっけ』は某海鮮家族みたいに同じ年齢で永遠に生き続けるタイプの作品ではない。時間は止まらず経過し続ける。彼女らはキャラクターの死という物語の暴力さえ使われて、自立した大人になることを強制される。『もっけ』の読者は彼女二人の成長を見守るスポンサーなのかもしれない。
 さて、タイトルに「『もっけ』が終わるとき」と書いたが、これはどういうことか。ちっともそんなことに言及してないじゃないかと思われるかもしれない。本来、時間が流れるタイプの作品では、主人公が学校を卒業すると同時に物語も幕となる。大学生版『あずまんが大王』も社会人版『げんしけん』もオリジナルでは存在しないのだ。しかし、『もっけ』は姉妹がそれぞれ中学校と小学校を卒業したのに話が続いてしまった。この場合、いつ終わるのだろうか?
 たぶん外れると思うが、予想を一つしてこの誤読も幕としたい。それはじいさんが死ぬときではないだろうか。じいさんが亡くなったとき、姉妹二人にはついに頼るものがなくなる。その離陸が成功だろうと失敗だろうと、彼女たちは後戻りのない巣立ちを体験する。それ以上の母性からの距離のとり方はないので、物語は継続できない。そんなわけでこの論考の論理のままでいけば、一応筋は通っていると思うのだが、どうだろうか? そんな悲しいラストは問題だという声もあるかもしれないが、心配しなくてもいい。彼女たちの行く末を見守ってくれる心優しい読者がたくさんいるじゃないか。そう、あなたもです。『もっけ』の読者は姉妹二人を保護する義務を負う。だから、僕らは読者をやめることができない。みんな、大人の目で彼女たちを見守っていこうではありませんか。

2007年11月22日

ミク試し描き

miku01.jpg

皆様ご無沙汰しております。
挨拶代わりにミクをはります。

挨拶だけでは不調法ですので、今期のアニメの話を軽くさせていただきます。

・灼眼のシャナII
ガチ戦闘そっちのけで、三つ巴の坂井悠二争奪戦。あっちもこっちも惚れた腫れた。もっとやれ!それが見たかったんだ!!

・こどものじかん
菅沼栄治監督。ラムネやMAZEの頃から菅沼さんのロリ絵が好きでした。スニーカー文庫の『MAZE☆爆熱時空』のカラーイラスト、未だに目に焼き付いております。だから見ます。

・逆境無頼カイジ
アカギの圧倒的な面白さを期待したけど、そこまではまだないです。

・もっけ
とても安心して見られます。
おじいさんが気になる。賢者キャラなんだけど、中二病すれすれの理屈がまじる。

・BLUE DROP 天使達の戯曲
登場人物が過剰に頻繁に頬を赤らめている。いやいやそこは百合的に見ても恥ずかしがるとこじゃないだろ、と思うような箇所でも赤らめてくる。それを見ていると、記号の力、文脈の力に考えが及ぶ。
この作品は百合なんだから、恋愛感情に通じる場面で少女が赤面するのは正常だ。というか、それ以外にないはずだった。ところが「彼女と彼女の関係性」を読み取りがたい状況でも、バッチリ赤面している気がする。見直すと「ああ、それで恥ずかしがってるのか」と気づく箇所は確かに多々ある。香月みち子は特に頻繁に赤面しているが、彼女は内気で妄想がちでアガリ症なので、納得はできる。しかし例えば、「驚き」のみですむところを「驚き+赤面」にしていたりする。明らかに意図的に付与されている。
これは「百合ですよ。少女同士が恥ずかしがってますよ」というエクスキューズなのだろうか。そうかもしれないが、それだけではなさそうだ。
そんなこんなで先が気になるアニメだ。

・神霊狩/GHOST HOUND
まだ一話しか見てないが、やっとるねぇ!と嬉しくなった。
中村隆太郎・小中千昭のタッグに期待。

・CLANNAD
1話は特にそうだったが、テンポ良く、間を作らずにやっていくようだ。
風子シナリオを先に片付けている。唯一“街”の外にいたキャラを最初にやる狙いはなんだろう。
原作のオーラス中のオーラスに出てくるのは風子だ。手堅く最初と最後を飾る算段か。

映像で見ると、Keyのキャラは特に池沼じみている(それがなおよいのだが)。ゲームでは違和感がなくても、映像ではキツく感じやすい。
単純に慣れのせいなのだろうが、ギャルゲーをやっているときはTPOに配慮する脳の回路が鈍磨しているのではないか、という仮説を思いついた。
私は初めてエロゲー(『Natural -身も心も-』)に触れたとき、プレイ中、「校内でこんなこといたしてていいのかよ、誰かに見つかって大変なことになるんじゃないのか」と実に道徳的な(害悪でしかない、思考停止した)焦燥感を覚えたものだが、じきに気づいた。この世界に通行人はいない。第三者はいない。
その暗黙の了解が主因なのだろうが・・・・・・

2007年10月20日

『ぽてまよ』と母性およびディスコミュニケーション

今日は森田季節氏より原稿をいただいたので、アップします。
それではどうぞ。


『ぽてまよ』と母性およびディスコミュニケーション 森田季節

 2007年第三四半期は、京アニの『らき☆すた』はじめ、なのは3期、絶望先生・グレンラガンなど重要作品がことごとく終わった。そのなかで、そういったメジャータイトルと比べると地味に『ぽてまよ』も1クールの幕を閉じた。
 正直、上にあげたような作品はさんざんウェブ上でもいろんな意見が書き散らされるだろうが、『ぽてまよ』はそのまま忘れられそうな予感大である。なので、備忘録的に『ぽってまよ』がいかに重要な作品だったかつけておこうと思う。なお、漫画のほうをまだ買ってないのでアニメだけで語ります。

 まず、『ぽてまよ』は高校生のクラスメイトたちを中心としたやりとりの中に、「ぽてまよ」(および、ぐちゅ子)という2頭身の変な生き物が入ってくるコメディアニメだ。普通の学園生活に異物が混入するスラップスティックコメディというのは、ギャグ漫画やコメディ漫画の典型の一つだと思うが、『ぽてまよ』もその一作に数えて問題ない。
 ここ近年、そういったコメディ設定を軸に物語を展開した作品としては、『吉永さん家のガーゴイル』があげられる。『ガーゴイル』が優れた作品であることはどっかで書いたと思うが、それに負けず劣らず『ぽてまよ』もよい。以下、重要な要素である‘すれ違い‘をもとに話を進めていく。その点にしぼったのは、作品全体を包括した論を書けるほどの能力がないためでもあるが、やはりこの作品の核となる部分が‘すれ違い‘ にあると考えるためである。

 まず、『ぽてまよ』のアニメを見て最初に目にするものは何か。もちろんOPだ。あ、別にギャグではありませんよ。OPの歌詞がまさにこの作品の主題をもう語ってしまっているのだ。この主題歌のタイトルは「片道きゃっちぼーる」(唄:MOSAIC.WAV)だが、これはボールを投げても何も返ってこない、投げっぱなし状態のことで、もろにディスコミュニケーションの暗喩である。この曲は全篇通じて形の整わない折り紙とか、結び方のよくわからない赤い糸とかコミュニケーションの不都合をあらわす比喩表現で埋め尽くされている。というか、歌詞のなかに「ディスコミュニケーション」とか「かみあわない」とか言ってしまっている。で、この曲の主題は最終的に、この世はコミュニケーションの難しい「ズレた世界」だけど、ズレたまま仲良くやっていけばいいだろうという結論で終わる。むしろ、ズレを修正しようとする行為にははっきりとは書かれていないが、否定的なニュアンスが強い。ここまでアニメの主題と一致した歌詞の曲をOPに持ってくる時点で、製作側のそつのなさを感じる。OPやEDまで含めて完全に作品の一部になっているのだ。(註1)

 ではディスコミュニケーションが作中ではどう扱われるのか。多くのコメディと同じように、『ぽてまよ』でも作中のキャラがほかのキャラを一方的に好きになって報われないという視点がよく見られる。これはクラスメイト同士での恋愛のベクトルだけではない。もっと広い意味での人間関係の緊張とか対立を含む。
 たとえば主人公の森山素直(すなお)は父の皇大(こうだい)のどこか破天荒な性格をかなり嫌っており、しばしば父親を殴る描写がある。基本的にクールで、明らかに自分に好意を持ってることがわかるみかんというクラスメイトの女子にすら一貫して中立的な態度しか示さない素直が、父親にだけははっきりと不快感を表明する。このことはアニメのラストのほうでなされた、素直の母親(つまり皇大にとっては妻にあたる)の死の話ともリンクしている。母親の死のとき、皇大は研究先の外国から帰るも間に合わず、素直母親の死を一人で看取る。このような描写にも、作品の底を流れるテーマである‘すれ違い‘が現われている。
 皇大は妻をないがしろにしたわけではない。純粋に間に合わなかったのだ。だが、だからこそその罪は深いともいえる。ディスコミュニケーションというのは利害的対立にある人間に対して言われる言葉ではない。それは単なる対立そのものだ。コミュニケーションをしようという意思があるにもかかわらず、関係がうまく運ばないこと、それがディスコミュニケーションのはずだ。実際、作中の人物は基本的に善人で、悪意が行動原理になっているわけではない。にもかかわらず、ぐちゅ子が自分を世話してくれる高見盛京のお礼に、豚の頭を切り取ったものや牛の死体をプレゼントしてしまうことに代表されるように、しばしば善意は大きなお世話になってしまう。
 それは主人公の父子関係においてもそうで、父親皇大の過剰なスキンシップは素直にとって鬱陶しいものでしかない。皇大は普段は外国で仕事をしており、我が子と会える時間は限られている。まして子供には母親がいない。そういった設定を踏まえると、皇大の子をかまうのは多少は冗談半分のところがあっても、子を想う真面目なものだ。だが、素直はそれを受け入れることができず、父親を殴る。最終的にはそのことをみかんに咎められ、父親と和解するのだが、明らかにこの父子の和解がこのアニメが描こうとしたものの一つに思えてならない。

 無論、ほかのキャラの間でもディスコミュニケーションはついてまわる。ヒロインにあたる夏みかんは主人公の素直に恋心を抱いている。割と露骨なのでさすがに素直も気づいているのではと思うが、正面から告白されてないからなのか、何の反応も示さず、結局最終話まで恋愛が終わることも始まることもなかった。本編途中からは重度のシスコンの弟の夏哉純(なつ やすみ)が転入してくる。彼は素直と姉の仲が進展しないよう、妨害を行おうとするが根が善人のため、「していま一つ冷たい態度に徹することができない。結果的に素直からは「いい奴」と思われている(wikiより引用)」。また、この哉純は関とまりという小学五年生の女子からひょんなことから好かれるようになる。このようにボールの返ってこない片思いが連鎖し続ける。

 一方で、マスコットキャラにあたるぽてまよ(註2)のことを愛しているキャラもちゃんといる。素直のクラスメイトの桐原無道は小動物的なかわいがり方ではなく恋愛感情を持っているが、非常にぽてまよからは嫌われている。渾身の思いで出したラブレターは誤って春日乃ねねに届いてしまい、以後彼女になかば奴隷的に使役されることになる。また、この桐原によく行動を共にしてる初芝薫(注意 男)は惚れており、薔薇な関係である。まあ、そんな恋は成就しないが。

 同じくクラスメイトの高見盛京はぐちゅ子というぽてまよ同様の奇妙な生物に優しく接し、やがてぐちゅ子は高見盛家の木の上を寝床にするようになる。しかし、ぐちゅ子はお菓子をもらったお礼として牛の死体や豚の死体をそっと置いていくことはあっても、それ以上のコミュニケーションを誰ともとろうとせず、基本的に孤高を保っている。高見盛家は一家揃ってぐちゅ子に寛容で、彼女?(註3)がガラスを割っても怒ったりせず、逆に家に入れようとするくらいだ。それをぐちゅ子が拒むと、今度は犬小屋のようなものを作って住まわせようとする。ぐちゅ子は雨風が吹いても小屋に入るのを潔しとしない。

 さて、主人公の素直自体は自分が育てることになったぽてまよとどう接しているのか。彼はぽてまよに対して見事な親として振舞う。厳しすぎず、甘やかしすぎず、何かしつけるときには理由を教え、理不尽な態度を決してとることがない。おむつを替えるような汚い仕事も嫌な顔一つしない。話の序盤では父親も帰ってきていないので、素直は一人暮らしの高校生である。その境遇で彼が理想的な親として接するのは、彼が自分が獲得できなかった理想的な親子を無意識に求めていることにほかならない。彼はほとんど感情を表に出さないが、逆に彼が恋い慕うものが垣間見えてやるせない。ただ、そんな彼が唯一心から微笑むシーンがある。それはぽてまよとほお擦りするシーンだが、一番典型と言えるのがEDのラストの場面である。このとき、彼の表情は見る者に母性を感じさせる。それは彼が幼くして最期を看取った母親に共通するものだ。そもそも、スカートをはかないといけなくなる回があるくらいに、彼は見た目からして中性的であり、父性を感じさせる要素が少ない。それは彼が失った母親像を追い続けている証左である。しかし、そういった素直の欲望は彼のクールな表情からはほとんど漏れ出てこない。そのギャップが素直を主人公としてとても魅力的な人格にしている。

 このように『ぽてまよ』では関係性の軸は必ずずれてすれ違う。明確な好意の表明すら、キャラクターを幸せにはしない。桐原のラブレターの伝達ミスが象徴するように、思いは届けたい相手には届かないのだ。『ぽてまよ』はそのディスコミュニケーションをほどよくのんびりした空気でコメディに仕立てているから、ちょうど見ている側に心地よい。これが『らんま』みたいな過剰なアクション展開があると、読者が疲れただろう。
 タイトルこそ『ぽてまよ』だが、人でないこの生き物がほかのキャラをふりまわすこともなく、延々と日常のうちのちょっとかわった体験――墓参りとか誕生日会とか写生大会とか――が語られる。だから読者は肩の力を入れずに作品を見れるのだが、その底には予想以上に複雑な素直の心の動きがある。それをてらいなく表現したところが、『ぽてまよ』の良作たる所以なのだ。
 最終話でも素直は厳密には父親の皇大を許したわけではない。だが、彼は父親という自分と異質な個性を認める。違いそのものを受け入れること、それがコミュニケーションに一番大切なものだ。キャッチボールは相手に投げる場所を厳密に指定してやるものではない。少し横にそれたり、ワンバウンドになったりすることがあってもそれを許容する心が必要になる。
 最終話で、ぽてまよとぐちゅ子はそれぞれ自分の花からできた種から自分と性格が真逆の子供を生む。素直と高見盛京はそれぞれの子供を躊躇なく受け入れる。これは素直が父親との葛藤を乗り越え、親となる側にまで成長したことを暗示させる。もはや彼にとって母親は追いかけるものではなく、自分自身に体現されるものになった。彼は新たに生まれた子供を胸に抱きかかえつつ、父親としても正しくしつけるだろう。ストーリーのラストで素直は子供を卒業し、正真正銘の親となる。
 ギャグを基本にしつつ、主人公の成長を正面から描いた、それだけのことができた作品は冷静に振り返るとほとんどない。だからこそ、『ぽてまよ』は優れた作品なのだ。なんか堅苦しいことを長々と書いてきたが、このアニメは本当に気軽に見れて楽しい。スラップスティックでいて道徳的にもとても筋が通っている。こういうのこそ、子供が見る時間帯にすべきなんじゃないかと思う。というわけで、私は『ぽてまよ』を応援する。これで作品に興味を持ってくれる人が一人でも増えれば幸いである。

(註1)まあ、ある意味『らき☆すた』もEDは作品の一部だと言えると思うが、ちょっと意味が違うと思う。まあ、そもそも最近の(別に最近になって急にそう変化したという意味ではない)邦楽の歌詞は具体性がないものが多く、なんとなく頑張ってたり、戦ってたり、努力してたりすることが伝わるだけなので、作品とリンクしてるのか判断のしようがないのだが。中川翔子や水樹奈々の歌詞を想起してほしい。極めて抽象的なことに気づくはずだ。

(註2)広義では、一応人間ではないぽてまよとぐちゅ子も美少女キャラに入るのだろうが、さすがに2頭身なので、ヒロインではなくマスコットとしておく。

(註3)女っぽいが性別は本編では不明である。ぽてまよ同様、花が頭から咲いたので、どちらか判断する次元ですらないかもしれない。ただ、見た目は女の子であろうと思う。

2007年07月23日

『王立宇宙軍~オネアミスの翼』

王立宇宙軍 オネアミスの翼
山賀博之『王立宇宙軍~オネアミスの翼』(1987,GAINAX)

 ストーリーを追うのが快楽な、そういう普通の作品ではない。アクションの快楽を追う作品でもない。すなわち漫然と観て楽しいエンターテインメントではない。
 けれども別種の体験を味わえる。
 この作品には世界がある。映画が始まる前・終わった後にも続いている世界が"既に"ある。

 これは当たり前のことではない。
 物語には登場人物と舞台=世界、どちらも必要である。それらを欠いた物語は想像すらできない。だから暗黙の了解として、作品内部に存在し続けるであろう世界を想定し、関連づけながら観客は視聴する。作品内部には世界があることになっている。世界の連続性を担保として、物語という連続性が認められる。
 『ドラえもん』や『サザエさん』の内部にある世界と、『風の谷のナウシカ』の内部にある世界、『ランボー』のそれ、これらのあり方は大きく異なる。
 ドラえもんとのび太のいない『ドラえもん』や磯野家のない『サザエさん』の世界は想像できない。これらの作品において例えば背景が描かれるとき、それは主人公達が住んでいる街、行ったところが必要に応じて描かれる。それらはあくまで主人公達に付帯する情報で、関連づけの糸を断ち切ることができない。断ち切ったことにして、試みに彼らの住む"街"だけを想像してみてもあまり意味がないだろう。
 ナウシカのいない『風の谷のナウシカ』という作品は想像できないが、『風の谷のナウシカ』の内部にある世界は容易に取り出すことができる。そこには歴史が描かれているし、個性的な厳しい環境がある。風の谷の住人になって冒険する、そういう愉快な想像の余地がある。ナウシカが生まれなくても「風の谷」は揺るがない。しかし繰り返しになるが、ナウシカのいない『風の谷のナウシカ』はありえない。主人公と物語は特権的な力をもって作品と結びついているようにみえる。
 同様にランボーのいない『ランボー』という作品は想像できないが、では『ランボー』の内部にある世界はどうだろうか?
 もしもあなたがベトナム戦争を知らず、アメリカという国がこの地上にあることも知らないのなら、あなたが一番正しく『ランボー』の内部にある世界を取り出しうるかもしれない。けれどその見方は一般的ではない。『ランボー』の舞台は我らが地球の/アメリカの/どこかの田舎町で、またランボーはベトナム帰還兵である。我らが人類の歴史においてほんの少し前に起こった戦争を主人公は経験している。そういうことになっている。
 となると、『ランボー』の内部の世界は我らが現実世界と共通の、ひとつのスナップショットとみなした上で鑑賞するのが当然の気がしてくる。ここまで来ると『ランボー』の世界を取り出すことは殆ど不可能だ。それは我々の世界とどこかで地続きになっている。

 以上のように、物語の舞台には多様なあり方がある。この違いを生み出すものはなんだろうか。情報量の多寡の問題ではない。実写かアニメか? これは難しいが、少なくとも根源的な要素ではない。
 そのヒントが『王立宇宙軍』にある。『王立宇宙軍』の世界のあり方は、上記のどれとも異なる。あまりに絶妙なバランスで成立しているので、見過ごしてしまいそうだけれど。

 「王立宇宙軍」のいない『王立宇宙軍』という作品を想像することは確かにできない"ようだ"。『王立宇宙軍』の内部から世界を取り出すことはできる。ここまでは『ナウシカ』と同じだ。
 しかし、主人公「シロツグ」のいない『王立宇宙軍』という作品は、どういうわけか想像できそうな気がする。微妙なところだが、しばらく考えているうちに「できそうだ」とわかってくる。主人公は凡人で、たまたま国家事業の有人ロケットのパイロットになる。彼でなくても別の誰かがパイロットになっただろう。そのときはその誰かを主人公にした『王立宇宙軍』が観られそうだ。
 そしてこれに気づいたあとは、「王立宇宙軍」のいない『王立宇宙軍』もなんだかありえそうな気がしてくる。これは結構珍しい、不思議なことだ。
 何を言っているのか曖昧模糊としてきたが、ひとまずそういうものとして聞いて欲しい。いまここで書いていることはたぶん誤読の産物と言えるけれど、このような誤読を許す程度には『王立宇宙軍』は一般性を獲得していると考えよう。

 さて、『王立宇宙軍』の面白さの肝は、「作品世界の取り出し可能性=自立性」とこれを前提にしたのちの「主人公の交換可能性」にある。
 ではどうしてこんなことが可能なのだろうか。
 『王立宇宙軍』の世界は取り出せる。歴史があるし、自我を持った人々が暮らしている。そのように感じられる。
 この感覚を支えている要因はだいたい以下、
・世界、人物、アイテム等、設定やデザインがしっかりしている。ほんものらしく、実在していそうだ。
・主人公達とモブの作画に際だった差異をつけず、あくまで人物として等価に扱っていること。この均質化は、実写は本来備えている。
・背景が緻密である。我々が慣れ親しむ実写や現実世界のように、というわけでは正確にはないが、それ相応の情報量とパース等の光学的整序が与えられている。
・ストーリーのメインとは無関係なカットが存在する。特に、モブに焦点をあてたカットが存在する。それらの素材は、舞台やそこに生きる人々の実在性を強化することになる。"映画"の常套手段だ。
・脚本面でいえば、しっかりと日常的な会話になっている。芝居の作画もしっかりしている。ありそうな気がしてくる。

 ひとまずこのあたりで切り上げる。
 至極一般的なことを書いた。これらに気をつければ取り出し可能な自立した世界を作品内部に作ることは可能だ。
 主人公が交換可能ということは、言い換えれば、主人公の固有性や必然性が作品の固有性や必然性と可分であるということだ。必要条件の一つ、世界の自立性はいま示した。しかしこれは、作品の固有性のほんの一部分に過ぎない。では「物語」はどうだろう?

 「ナウシカ」と『風の谷のナウシカ』は、「物語」を中心に強く結びついている。
 『ナウシカ』の物語は、世界を連続的に包んでいるようだ。あらゆる部分が物語との関連性を持ち得ている。世界の歴史的な一局面に、かなり絞った焦点をあてて見せている。ピントが合っていてあまりにクリアに見えるし、またそこだけを見せているので、見えていない部分も同じように続いている気がする。しかし、車がアスファルトの上しか走ったことがないからといって、オフロードがないことにはならない。
 メインストーリーとは無関係な素材を挟むと、物語は連続的ではなくなる。離散的になる。サイコロの出目のように散らばっている。しかし我々は「神はサイコロを振る」ことを経験的にも科学的にも知っている。離散的な物語はこの事実を思い起こさせてくれる。「偶然」という、ひとつのリアリズムだ。
 このリアリズムを実践するように、『王立宇宙軍』はオフロードも走る。気ままな走り方だ。主人公「シロツグ」と「物語」の結びつきはどうにも緩い。だから散漫で、面白くないかもしれない。でもそれは本当は気ままではないのだ。
 『王立宇宙軍』には「繰り返し」が多い。「反復と差異」、基本的な物語素だ。それらの反復はしばしば、というか殆どメインストーリーと無関係だ。"偶然"の要素が繰り返される。メインストーリーの素が<1の目>なら、それがもっとも"拾われ"、映される。しかし、<2の目>も<5の目>も比較的拾われる。ときには<6の目>を拾ったりもする。『王立宇宙軍』はそのように構造化されている。だから、シロツグがなんとなく主人公の資格たるパイロットになった偶然も、「偶然の構造」に回収されていく。
 『王立宇宙軍』の構造はもっと多層的だが、いまはこれに代表させよう。この「偶然の構造」が『王立宇宙軍』の固有性であり、これを担保として主人公シロツグは交換可能であり、タイトルをはる王立宇宙軍さえも交換可能だ。となると、この映画は無限に物語を生み出すことが可能だ、と論理的には言えそうだ。うん、妙な映画だ。


*おわりに
 ずいぶん駆け足となったが、ここで筆を置く。
 白状すると、今回のエントリーは鈴谷了氏の評論にインスパイアされて書いた。
 重要な着想はすべて氏のもので、私の文章は殆どただの劣化コピーと言っていい。
 しかしどうしても自分でまとめる必要を感じ、正直になることにした。
 『王立宇宙軍』を観たことのある方、特に「これ面白いか?」と思った方は氏の評論を読んで欲しい。とても刺激的だと、私は感じた。

2006年07月01日

TVアニメ『吉永さん家のガーゴイル』

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原作はファミ通文庫のライトノベルで、こちらは未読。本稿ではアニメ版を扱う。
とりたてて前評判は聞かなかったが、放映開始よりネット各所での評価が高く、それなりの視聴者を獲得したと思われる。その評価の根拠を詳らかにしたい。ネタバレには一切配慮しない。

*あらすじ
平和な御色町には、
吉永さんという一つの家族がいた。
ただ……かなり個性的な一家だった…。
小柄な女の子でありながらも特技はプロレス、
好きな言葉は「先手必勝」な
勝気なトラブルメーカー双葉。
華奢な姿とおとなしい性格から、
五割の確率で女の子に間違えられる兄の和己。
身体も声も大きいパパに、
とにかく無口だけど最強なママ。

そんなある日、双葉が商店街の福引きで
引き当てたのは…
喋る犬の石像で!?
しかも吉永家の門番になる??

吉永さん家の門番は超渋くて超キュートで超最強!
個性豊かな吉永さん一家と商店街のみなさんとの
“ご町内ハートフル&ハッピーコメディ”!

(OHPより)

*キャラクターデザイン
あらすじを一見すればキャラクター性が前面に出されていることがわかる。キャラクターといっても犬の石像「ガーゴイル」を始めとして、盲導犬「エイバリー少尉」、携帯電話をスピーカー代わりに喋る植物「オシリス」など人外の面々も多く、彼らと人物が統一的にデザインされることで、破天荒な設定や展開を許容しリアリティを支えている。日向悠二によるキャラクター原案なくしては、本作の説得力は成り立たないと私は考える。その特徴と優位性をまず語る。

人物の骨格や肉付きにはディフォルメが施されており、女性陣の瞳に至っては縦の長さが頭蓋骨の五分の一ほどの大きさで、ロリ属性の視聴者には求心力のあるデザインだ。主人公格の女性陣はともかく、他キャラの顔の骨格は幾何図形的に差異化されている。もちろん差異化は顔の輪郭だけでなく瞳・口などのパーツや骨格・服装にも及び、凡そセリフのあるキャラは50名ほどいるが、彼らを見間違うような事態はありえない。
たとえば衣服のシルエットは簡略化されており、金具等のパーツを大きめにデザインすることで記号性を高めている。より一般化すれば、線画の殆ど全てが構造線として機能しており、情報の伝達効率が非常に高い。かような精度の描線により描き分けられる立体物は、人物だけでなく犬・石像・植物も表情を持つキャラとして彫像されている。
アクションや表情のパターンも豊富で、軽妙に元のバランスを逸脱するが、それらのアニメ・マンガ的「遊び」を容認し想像力を刺激するポップアートに近いキャラデザで、この多種多様さと統一度はそれだけでも偉業であると同時に、喋る石像その他奔放なキャラや、双葉のドロップキックに代表されるテンポアップ等、物語世界の自由度を保証している。


*ストーリー
第1話紹介(OHPより)

今日も新聞を持ってきた配達員を黒こげにし、主の双葉にドロップキックで蹴落とされる、
門番型自動石像ガーゴイル。彼は任務に忠実なのだが加減を知らぬ対応に、双葉に蹴倒される毎日だ。
そんな中、ガーゴイルは双葉の友人・小野寺美森の家の盲導犬エイバリー少尉の評判を聞き、
同じ主人に信頼されるべき存在として興味を持つ。その夜、小野寺家に怪しい人物が侵入するのを
ガーゴイルの探知機能が察知して…。

ちなみに小野寺美森の父が盲目である。
ではその後を補足する。
ガーゴイルと双葉の助けにより、強盗は逮捕され小野寺家も被害を被らずにすむ。しかし強盗に対して吠えなかったエイバリー少尉に、美森は不信感を募らせ、一時的な登校拒否に陥る。犬や猫とも会話できるガーゴイルがエイバリー少尉に事情を聞くと、「すでに美森が拘束された状態で無傷に守るには、抵抗せずに金品を渡して帰ってもらうのが適切」と判断したことがわかる。美森の安全を最優先としたエイバリー少尉の判断を聞かされた美森は、少尉を信頼できなかった自分を恥じ、克服するためにその夜目を瞑ったまま町内を少尉と巡る。恐怖している自分と、いつも笑顔で歩く父を対比し、父の笑顔と安心は少尉のおかげなのだと確信した美森は「少尉はいつも一番だよ」と労う。その帰路において双葉と出会い、彼女らは近所に賊が侵入するのを目撃する(その夜第二の強盗現場)。双葉はガーゴイルを呼ぶために、既に対策がとられていた第一の現場へと急ぐ。ここで美森の足がすくむ。動けない美森の安全を確保するために、賊を退散させたい。少尉は吠えようとするが、盲導犬として訓練されているため吠えられない。直接威力に頼るしかないと判断し、少尉は現場へと駆け参じる。現場はガーゴイルの力で収拾されるが、少尉は傷を負ってしまう。盲導犬故の負傷に美森は涙する。言葉は通じずとも互いを思い合う二人。それを見て、言葉の話せる犬の石像であるガーゴイルは双葉との不和を不甲斐なく思う。内省に入りかけたところでガーゴイルが異変を察知する。状況が終了した第一現場にいたはずの双葉が消えた・・・・・・ここで第一話は終わる。(伏線として、賊を援助し第一現場を監視していた謎の人物が、ガーゴイルに不逞な関心を寄せていることが既に挿入されている)


絵柄からしてオタク向けなアニメの第1話において、盲導犬を物語るとは瞠目させられる。どうせ適当なキャラクター消費アニメなんだろと先入観を持っていたのは私ですすみません。お涙頂戴な自己犠牲と忠誠の記号として盲導犬を扱うのではなく、あくまでも少尉と美森相互の信頼関係を主軸としており、説話論的にも水準以上である。信頼関係の回復と平行して、門番だけでなく御色町の番犬としての自覚を持ち始めたり、双葉との不和を内省させるなど、タイトルを張るガーゴイルに焦点を当てることも忘れていない。双葉消失と、次の話への引きも十分だ。各話のラストに次話への導入を張る構成は第5話まで続けられ、1~6話は大きな時間経過のない一本の物語となっており、視聴者を引き込んでいく。単話だけでなくシリーズ構成にも懈怠ないのは、さすが原作つきといったところか。
第1話を例にした局所的な解説を終え、総体的な物語空間に筆を移そう。

1~7話までは、キャラクターの層を厚くする役割を担っている。各話にメインとなるキャラクターがおり、ストーリーを通じて彼らの人格や来歴を伝え、内面をもつ生きた存在へ昇格させている。彼ら前半で焦点が当てられるキャラクターはその後の重要度も高い。
町の外部に初めて視線が向けられる第8話を転換点として、その後は特に新らしいキャラは登場しないが、既登場キャラクターの内面の深化が図られ、平行して御色町商店街を代表とする外界が描出される。最終13話へ向けて、10話からは話数をまたいで『場』をめぐる伏線が張られており、『ガーゴイル』の面白さを十全に伝えるには無視できないので、ここに梗概と簡単な注釈を加える。なお9話にも最終話で使われる素材が張られているが、特に重要ではないので省略する。

・10話
五〇年の歴史を持つ御色町商店街だが、駅向こうに来春オープン予定のデパートの煽りを受け、客足は遠のいていた。打開策としてガーゴイルは商店街のマスコットを引き受けるが、決定力に欠ける。次策に、怪盗百色がガーゴイルの首の鈴を盗むと予告状を出す。予告当日、TVリポーターも駆けつけ賑わっていたところオシリス登場。てんやわんやしつつも百色とガーゴイルが機転を効かせ事なきを得る。しばらくは活気づく商店街であった。
>ガーゴイルの鈴は以前お隣のお婆さん(ガーゴイルを「狛犬さん」と呼ぶ)から泥棒退治のお礼に進呈されたもので、その謝意がガーゴイルの感情の醸成に一役買っているし、門番たる動機付けにもなっている。この原体験と心情は回想で語られるが、当該時期に桜の舞う神社で狛犬と対話する形式で描写される。
・11話
クリスマスが近づいていた。吉永和己に恋心を寄せる片桐桃は、兎轉舎(ガーゴイルを作った錬金術師・高原イヨが営む怪しい骨董屋)で黄色い毛糸玉を買い求め、夜なべして人形を編む。桃は和己を呼び出し、プレゼントの人形を渡そうとするが、紛失している。人形は商店街で「和己」を捜して歩き回っている。桃の意志が封じ込められたわけだ。和己と桃は捜索するが見つからず、神社で休憩する。和己の口から、神社の御神木である桜の「この桜の下でした約束は必ず叶う」という言い伝えが語られる。雪が降り始める。桃は想いを告げようとするが、垂り雪に腰を折られ、秘めたままとなる。ガーゴイルらにより人形が届けられるが、もう動くことはない。
・12話
御色町商店街恒例、神社の御神木を奉る「さくら祭り」の季節がやってきた。しかし、駅向こうのデパートのオープン日を祭り当日にするという宣戦布告が、支配人・松川によりもたらされる。松川と吉永パパは旧知の仲で、事情を知らないパパはデパートのオープンセールの協力を約束をする。さくら祭りを毎年手伝っているママは怒り狂い、未曾有の夫婦喧嘩となる。
折しもオシリスの失踪(何者かに捕獲された)、ケルプの暴走(これも何者かに操られた)、松川が「日本一イベントを盛り上げるのがうまいお祭り屋」を雇用、などが重なる。夫婦喧嘩も落ち着く気配を見せず、事態は混迷を窮める。
>神社の桜を見上げるママが何度か挿入されており、喧嘩中に至っては涙を流しさえする。
・13話
さくら祭りが始まった。商店街とデパートが競り合うさなか、神社の桜にオシリスが融合・巨大化し、周囲を破壊し始める。レイジとハミルトンの逆襲だ。伸びる枝に萌黄のリボンを見つけたママと着ぐるみパパはこれを追ってよじ登る。ケルプはガーゴイルを襲うが、犬猫たちの加勢で退けられる。百色がレイジとハミルトンを撃退する。兎轉舎謹製マインドダイバーで巨大オシリスの心に入りこんだ双葉は、桜の記憶を遡行的に幻視する。桜の木の下で遊ぶ幼い自分。ママにプロポーズせんとパパがリボンを出すが、風で桜の枝にひっかかり、いつか二人で取りに行こうと約束したこと。双葉はさらにハナ子と再会し、解き放とうとする。外界ではママとパパがリボンをつかむ。ハナ子は頸木を解かれ、オシリスの暴走は止まる。パパはママにリボンを結わき、「祭りとデパートが競い合って、もっと盛り上がればいいと思った。自分にとってもこの祭りは大切な思い出だから」と告げる。
誰も彼も元の鞘に収まり、愉快な日々が続く。ガーゴイル:「御色町すべて問題なし」。
>商店街の客寄せとして高原イヨにより巨大立体映像装置が使われるが、巨大オシリスの暴走収束時に装置が取り込まれ、着ぐるみパパとママの抱き合う姿がでかでかと映し出される。

以上より、神社の桜をゲニウス・ロキとした商店街・御色町を、そこに住まう人々が保守する構図が見て取れる。
着地点を先取りしたところで、いかにそこへ向けて物語が記述されているかを俯瞰しよう。

ガーゴイルは冒頭から「吉永家の門番」であり、また御色町の守護者としての自覚にも芽生えていく。双葉との不和は家庭レヴェルの問題で、これは序盤に解決される。彼を狙う敵のうち東宮天祢と怪盗百色は、出会いこそ対立の形ではあったが、彼らもまた御色町の構成員として回収されていく。敵のもう一派であるハミルトンやレイジは、梨々の悪しき父と、梨々の小父となる百色に恨みを持つ者で、最後まで対立する者達だ。前者の敵はいわば身内(ご町内レヴェル)の結束を固めるための通過儀礼の類で、後者の敵はその結束を試す、おおざっぱに言えば外敵である。
三段構えで拡大していく対立構造が示されたわけだが、ここで参照して欲しいのが第8話「銀雪のガーゴイル」。例によって高原イヨの怪しげな改造を施されたガーゴイルが過去を透視するどころか過去に行ってしまい、今はなき山村で和己と双葉そっくりな姉弟に出会う。彼らは山の守り人の血筋で雪崩を予知するが、病弱で臥せっている姉は自分はいいから村人達を助けに行ってくれと頼み、ガーゴイルはそれに応えて村はつぶれるも村人は救われる話で、ラストでは伝承として現代に接続される。この過去のさらに2年前、件の姉弟の両親(これまた吉永パパとママにそっくり)が、雪崩を予知し村長に進言するも聞き入れられず、幾人かの村人と両親らが犠牲になるエピソードがフラッシュバックされている。これらの内憂と雪崩という外患は、まさに前述の三段の対立構造と対応する。吉永家のドッペルゲンガーが登場するこの村は御色町の箱庭であり、10話から描かれる町の危機と防衛の縮図となっていて、残念ながら山村は壊滅するわけだが、この体験で御色町の守護者としてのアイデンティティを確固としたガーゴイルは、もちろん彼だけでは為し得なかったことだが御色町を守り抜くわけだ。タイムスリップは高原イヨの錬金術に拠っていて、超常性を不満に思う視聴者もおられるかもしれないが、錬金術で生まれたキャラや道具は既にいくつも登場し、彼らは自ずから考え行動し人格を見せつけ、また道具もその功罪をテーマに消化しつつ効果的に物語を魅せてきた以上、我々はそれらを作品が規定する所与のルールとして受け入れなければならないし、このルールを最大限利用して、文脈を跳躍しつつ自己言及的な挿話をさらりと挟んだシリーズ構成はただごとではなく、第8話が『ガーゴイル』の作品水準を高みへ押し上げていると言っても過言ではない。

次に対立と和解のより詳細な構造を見ていきたい。
百色に代表される「御色町共同体」に吸収されていく面々は、登場時は「異邦人」の性格を与えられているわけだが、彼らが構成員となる前提条件は意思疎通の可能性である。
百色は怪盗というファンタジックな設定であるものの、故郷を求める一人の人間としても描かれる。彼は梨々の保護者となることで御色町に安住する権利を得たが、その前にガーゴイルとの対立・戦闘を経ていて、これは大変説明的な構図なのだが、動物や石像としゃべれる自動人形ガーゴイルを緩衝体に御色町へ参加していったわけだ。戦闘なんて単なるエンターテインメントの要請じゃないかと聞こえてきそうだが、いや、待って欲しい。さんざ対立対立いっておいて申し訳ないが、対立と和解という通過儀礼は本質ではなくて、潜在的な構成員である彼ら彼女らが発見されればそれですむのだ。その証左に挙げたいのが、ハナ子(後にオシリスへ融合)と双葉の交流を描いた5・6話で、植物と喋れるヘルメット(兎轉舎謹製マインドダイバーの原型)が在って初めて双葉はハナ子を発見したし、ハナ子とオシリスは御色町に参加できたのだ。
ここで前提条件「意思疎通の可能性」に帰ってくる。ガーゴイルの門番という立場は、確かに対外折衝を担いうるが、何よりもガーゴイル自身が錬金術から生まれた境界例的存在であることが要諦で、だからこそ怪盗百色はまず彼と出会わなければならなかったのだ。アウトサイダーを町の内部へ取り込んでいくには、ガーゴイルやマインドダイバーに類する意思疎通機能が不可欠で、機能を通して交換される情報自体は、戦闘であったりハナ子の声ならぬ歌であったり(この歌を使った音響演出の美しさといったらため息もので、誰か酒でもつきあいながら語り明かしたいところだが)様々に選択される装飾的なものでしかない。無論、装飾となるそれぞれの物語が高水準で描かれていることも『ガーゴイル』の魅力だが、異邦人を包み込む御色町の拡大機能が『ガーゴイル』の基本ルールであることを今一度強調しておきたい。ただし、このルールが支配的なのは身内のキャラクターを補充していく7話までだ。ならば以降はいかなるルールが支配しているのだろうか?

8話が転換点であり、メタコンテクストを孕んだ回であることは既に述べた。
9話は外敵のレイジが画面に初登場する。最終局面の前哨戦であり、10話も前述の通り同様だ。
では終盤11話より恋愛がモチーフになっているが、これは何故だろうか。
結論から言ってしまうと、「御色町の維持機能」の象徴的営為が恋愛だからだ。前半のルールが「拡大機能」であるならば、後半が「維持機能」になるのは自然と了解されると思う。御色町商店街とデパートの対立がレイジらによって御色町そのものの危機に取って代わり、これを防衛するストーリーと、和己と桃の淡い関係や吉永パパ・ママの恋情を想起させる関係回復の流れは一見相容れないが、町を構成する大部分が生物種のヒトであるからには、町の存続には交配という営みが必須であり、その初期衝動となる恋愛がモチーフに選択されたのは偶然ではない。
そんなバカな、現代的な物語素の中で最も一般的で共感しやすい恋愛をシメに持ってきただけではないのか、と聞こえてきそうだが、あくまでモチーフであって、我々は最終話で御色町の空に映し出されたパパとママの姿を思い出さなければならない。あれは単なる終結宣言ではない。これまでの話でメインにならなかった二人が消去法でラストに活躍したわけでもない。既に子を産み育ててきた二人が、かつて果たしきれなかったプロポーズのリボンを結び寄り添う姿が象徴するのは恋愛だけでなく、家族の情景である。また、二人の名前が明かされずに普遍性を付与されていることも忘れてはいけない。ラストシーンは「和己と桃」では務まらないし、ここにおいて『ガーゴイル』は、町や場の《精神性・特権性》を描こうとしながらも卑小な二者関係に退行し続けてきた幾多の作品(D.C./フタコイオルタナティヴ)を乗り越えている。
小学生には駆動させにくい恋愛要素が和己や両親に委譲されるのは論理的帰結に見えるが、もうおわかりの通り順序が逆で、双葉らが中学生や高校生であったなら恋愛の文脈に定位しようとする欲求はどうしても生まれてくる。これを抑制することで初めて『ガーゴイル』のテーマ選択性の高さは実現可能だし、可能とした田口仙年堂のキャラ配分能力は群を抜いている。
「物語はキャラクターしか描けない」とよく言われるが、実際は強度あるキャラが存在し、それらが複合的な運動を行って初めて物語のリアリティが保証されるのだ。
御色町商店街とデパートも、けして新旧の対立という狭い価値観で語られるのではなく、気負った演出なしに祭りというハレの場に収束させる手練も見事で、終わりにふさわしい。住人達はともかく、視聴者にとって御色町という舞台はもとよりコメディ劇が演じられるハレの場であり、錬金術という非日常の業が存在する空間だし、この空間の核となる神社の「桜の木の下で想いを告げると実現する」言い伝えは非日常性・フィクションのより共感を呼ぶ普遍的換言で、これを最終局面において顕在化させているわけだ。
このように物語が行われる場を特権化し、言及することで作品をまとめ上げる手法は珍しいものではない。特に、キャラ設定をデコラティブにしながら展開してきたエロゲー的想像力の作品群に頻出する超常設定(不老不死、死に神、幽霊、悪魔、魔法、超能力、etc)や、Key作品や『クロス†チャンネル』のような現代ファンタジーにおいて、世界観の穴となる超常性を知覚・検証が困難な『場』の水準へ押しやることである程度のリアリティを確保する形式で行われる。そのリアリティは形式のみに因るものではなく、精神性・抽象度の高いテーマを言語化しないまま描くときにも発揮されるが、本稿では扱わない。
少なくとも、錬金術があってガーゴイルがいて双葉たちがいる『ガーゴイル』の世界、御色町をめぐる祭りは、この形式にひとつの最適解を与え、完成している。原作者の田口仙年堂やシリーズ脚本の吉岡たかをがどこまで考えていたかは定かでないが、叙情的な風景描写に頼らず、動植物や像を含めた膨大なキャラクターのマスゲームに徹することで、共同体とゲニウス・ロキを描ききった『吉永さん家のガーゴイル』は傑作である。