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2007年09月18日

『乙女ケーキ』つづき

つづき。

○ぬいぐるみのはらわた
[ぬいぐるみ・名付け・分身・形見分け]
 AはBが好きだが、Bはノーマル。この時点で百合的には下策。男が障害になるのはうざいだけ。BがAを恋愛の視線で見ることが永遠にない、という軸は結構だが、ノーマルだからという理由付けは乗り越えられるべき。それは人の生理ではない。
 [名付け・分身]:くまのぬいぐるみがAに似ているとBが指摘。Aの名前をぬいぐるみに名付ける。なんて残酷な!
 本編では鈍感なBが他の男に行き、Aはやつあたりでぬいぐるみのはらわたを引きずり出すが、やつあたりでは弱いので↓

分身のぬいぐるみがBのそばに。Aが妄想をかきたてる(私の身代わりがあの子のそばにいるなんてハァハァ)
→でもやっぱり代わりじゃなくて私を愛して欲しい、という具合に屈託、ぬいぐるみふぜいがあの子のそばにいるなんて赦せない!とはらわたを引きずり出す
→でもやっぱり妄想力の賜物で、「代わりでもいいからつながっていたい」と絶望的な肯定をする

 という展開が見たい。
 特別の因縁ある、異形としての[一個のぬいぐるみ]もいいが、[ぬいぐるみ]が真価を発揮するのは群体としてだろう。低身長の娘がうさぎの耳を持って引きずるのもいいが、ちょっと少女趣味な娘の部屋にいったらやっぱり異常な数のぬいぐるみがあって、なんだかんだでトラウマ発動して人事不省で絶賛ひきこもって、主人公を知らない人と認識するようになって、「○○くんどこぉ? ・・・・・・なんだぁ、ここにいたんだねぇ」とぬいぐるみに話しかけてだっこして、看病に通うけど主人公の身代わりのぬいぐるみも毎日違ってて処置無しだよ!とかな。

○みちくさ
[下校・みちくさ・草花・おさななじみ・手を繋ぐ]
 男嫌いがどうとかも、ノーマルキャラと同様にやめておいた方がいい。百合だから男が嫌いになるわけでも、男が嫌いだから百合になるわけでもない。単純な消去法の支配、それは間違った世界の話だ。一顧だにしなくていい。
 [手を繋ぐ]くらい仲がいい[おさななじみ]が、腹の内では騙しあっているのは構わないが、「女の子が好きなフリ」で騙すのは性急だ。
 考えられる展開は、{[草花]に詳しいAは、昔からことある毎に教えているが、Bは覚えない。その身勝手さや無自覚をAは軽蔑しているが、Bのそういった軽やかさに救われる瞬間を設ける}といったところか。
 百合の関係の自明さを、[おさななじみ]の関係の自明さに任せてしまっていいのか。基本的にはいいわけがない。しかし、やるときには純粋で屈強な狂気をもって[おさななじみ]でありつづけた方がいい。『水月』の雪が、母でもメイドでもない「母」でも「メイド」でもあり続けたように。

○タイガーリリー
[夢・午睡・演劇・目を閉じる・キス・約束・忘却]
 要素だけ見るとそれなんてエロゲ?だが、読んでいて思い出すのは高野文子の「田辺のつる」(『絶対安全剃刀』所収)と「春ノ波止場デウマレタ鳥ハ」(『おともだち』所収)。
 老婆が女子高生の姿で描かれるのは、「田辺のつる」の幼女で描かれるつる婆さんだし、演劇で女子二人が距離を縮めるのは「春ノ波止場~」。余談だが「春ノ波止場~」は何故面白いのかわからないくらい面白いのでお勧め。
 本編のキモは、AとBがすでに夫を亡くしていて、片方は母校の寺尾先生のはずのようで、なおかつどっちがどっちかわからないところ。夢・忘却・不在の起点になってる。顔の描かれない存在で、随分とあざとい。ヒくかもしれないが、それはそれ。
 手の加えようのないほどダメか、とりつく島もないほど完結しているか、評価はお任せするが、諸事情により本項はここで打ち止めとする。

○ショートカット
[髪を切る・真似・手鏡・自己嫌悪・キス]
 Aに憧れるBは、Aの真似をする。この発想はどこからくるか。女同士の同質性から来るなら、直ちに捨て去るべきだ。

古いエロレズの発想には、男女間の非対称性・異質性の裏返しとして、女同士のあいだに対称性・同質性を求めるものが多い。(中略) エロレズにおいて、女同士のあいだに対称性・同質性を求めるのは間違っている。人類の遺伝子の多様性は、チンパンジーなどに比べてはるかに小さいのに、人種や民族のような差異で分断されており、人類の同質性を感じるのは難しい。これと同じ理屈で、女性しか出てこない世界では、女性の同質性を描くことはできない

 本編は順当に、「でもね 本当は知ってるの どんなにマネしたって私が沢ちゃんになれないってこと それと・・・ 沢ちゃんの心を うばえないってことも」と破棄している。異質性への気づきに恋愛の不可能性をはき違えるのは頂けないが、これも必要な一歩だ。
 同様に、自己愛や自己嫌悪も百合が同性間であること、その表層から見出してはいけない。

○氷砂糖の欠片
[疲れた母・父からの電話・氷砂糖・冷光・誕生日プレゼント]
 母と父の結婚生活の失敗を、氷砂糖の冷光現象を見たのをきっかけに母が昇華し、その様を見たAが、自覚していなかった自分の冷たさを乗り越える話、とまとめられるが、随分とぎくしゃくしている。
 「母の昇華」はAが能動的に関わって達成されたものでなく、母が回想し、救いに気づいたことで行われる、独りよがりなものだ。ここにクライマックスが置かれているので、主人公の話ではなくなっている。
 「母の昇華」の筋を補い、Aの筋として回収されるように、[父からの電話]を繰り返させる必要がある。短編としてはそれで成り立つが、どうも百合にはならない。母やAが共通して持つ「冷たさ」が、どのようにAとBの障害になっているかがはっきりしない。Aは社会化不十分な空気読めない子なので、つきあいが不得手です、というのは弱い。
 それを放置して百合らしくするとして、すでに好きあっているAとB、Bが勇気を出してAにキスをして、Aが条件反射で拒否してしまうところから始め、中盤をこなし、清流で蛍が舞うなかAからBにキスをして和解か。

○夏の繭
[水泳・ペットボトル・生理・髪]
 [水泳・ペットボトル]:水。こんな不潔な自分があの子に触れられてはいけない、というところで[水]を忌避している。
 [生理]は百合に必要か? 生理は身体を縛るゆえに、自我も縛る。それは避けられないことだが、直接出すものでもない。不可避の痛みは他にもあるはずだ。
 [髪]:よくよくタカハシは髪に執着があるらしい。殆ど憎んでいる。女性性を憎んでいる。「髪を切ってハッピーエンド」は自立しないが、身体の一部でありながら装飾でもある[髪]は、悪くない意匠だと思う。触れる、梳く、口づける、切る、束ねる、編む、抜ける以上に何ができるかというとあまり思いつかないが。その点、本編の「Aが寝ている間にBがもてあそび、口づけた」のはよいフェチだ。

○サンダル
 書くことがない。

○彼女の隣り
 桜の木の下のBに一目惚れしたAが、Bに近づくためにわざわざBの彼氏を経由した迂遠さは愛らしい。

○乙女ケーキ
[家庭科・屋上・かっぽうぎ・ケーキ・入刀=結婚式ごっこ]
 屋上で結婚式ごっこは意外に思いつかない、と思ったら『少女セクト』のp17からさらりと小ネタで入っていたので玄鉄絢はすごい。
 なぜ屋上か。校内で日常の延長になく、ロマンがある場所といえば当然そうなる。
 『Kanon』の真琴はものみの丘だった。異界、聖域。たしかに[屋上]は教会よりよっぽど聖域くさい。
 [屋上]の例は枚挙に暇がないが、『ONE』の川名みさき以上に鮮烈なのは永遠にないでしょう、原理的に。屋上で見るものっていったら空以外にありえません。校庭や街並みは二の次。みさき先輩は盲目なのに、夕焼けを見るために屋上にいるんですよ。「そのための場所」に「それが不可能」な人が「そのためにそこにいる」。これ以上なにを語れと。


*まとめ
 「キスをしてハッピーエンド」は百合でも成り立つが、勿論弱い。
 「ハーレムに入ってハッピーエンド」を『歴史のくずかご』その他『少女セクト』で見るが、これはなかなか強い。「恋愛は一対一でするもの」というイデオロギーが支配的な現世では、三角関係が背徳性や選択を強いる故に緊張感を生むように、ハーレムハッピーエンドのありえなさはそれ故に美しい。3人いればできるので、短編でも可能だ。現在最有力であり、業界標準の一つになっていくだろう。
 それとは別に、一対一でも成立するのものは?
 これがわからない。「監禁されてハッピーエンド」はエロレズでは強固だが、非ポルノでは冗談にしかならない。ハーレムや監禁と発想は同じだが、「同棲」は十分成立する。カップルを絶対化する発想。ただし、捻れが圧倒的に小さく、弱い。
 いつもここで思考停止する。おそらく致命的に何かを見落としているのだろうが、それはいつだって後にならないとわからない。

2007年09月15日

タカハシマコ『乙女ケーキ』

乙女ケーキ
タカハシマコ『乙女ケーキ』(一迅社,2007)

 随分前に『女の子は特別教』について書くよ~って言ったけど代わりにこれで。
 百合の短編集です。とりあえずタイトルにめろめろ。乙女ケーキて! こうなんつぅか、ふんわりしてて、甘くて、白いんですよね! あと帯の推薦文が桜庭。すべてが媚び過ぎやろ、俺にたいして。

*これまでのタカハシ
 BL出身の作者は、男性向け成年コミックにおいてアナーキーな鋭さを発揮してきた(『女の子は特別教』『水色ノート』『冷たいお菓子』)。女性キャラの魅力を引き出し、ポルノ描写の扇情性を実現するための逆算を経糸に、成年コミックは秩序立つ。その身勝手さを暴き立てる(まったく大きなお世話だが)、毒のある短編がタカハシの強みだった。内面のある、傷つく主体や既に傷ついた主体として少女を描いたり(これは普通)、白痴のように何をされているか理解しない少女を描くことで(これが偉い)、成年コミック特有の因果関係の不条理を露呈させ、押し進めた。
 ふーん、て感じですね。

*『乙女ケーキ』感想
 マンガとしては、それほど感心しない。テーマを先取りするような、強引に文脈を絞っていくような、急いたセリフが厭らしく、説得力がない。きたならしく、有り体に言えばへたくそだ。
 直接的な原因は明白だ。作者が百合に慣れていない。作者はあとがきでこう語っている。

百合まんがはフダンより更にひどく長時間なやむので(中略)
「この感情は百合だ。」と、私の中で思うものを探す旅(脳内)に時間をものすごく使ってしまったの原因です。

 つまり固くなっている。論理をどれほど重ねても、前提を間違えれば結論も間違う。百合という系を勘違いすると(例えば問題系であるかのように)、こういうことが起こる。百合はカオスではないが、連立二次方程式ほど単純でもない。
 この失敗の根底には、政治的な要因がある。お手本となるドラマツルギー(ドラマの製作手法)が策定されていれば、考慮しなくていいことに気を取られることなく、作家のリソースは効率的に運用され、失敗は減り、品質も上がる。作り手の「批評的」思考など、害悪でしかない。ただひたすらに忠実であればいい。そのためのドラマツルギーは、まだきちんと整備されていない。ジャンル固有の文脈の発展と蓄積が本格的に始まるのはこれからだ。コミックスにおいて百合の専門誌ができたのは、2003年(『百合姉妹』マガジン・マガジン)のことだ。諸々裾野は広がっているが、専門誌はというと目下『コミック百合姫』(季刊)『コミック百合姫S』(2007.6~ おそらく季刊)の二誌のみだ(いずれも一迅社)。つまり、何が言いたいかというと、「バカがっ・・・・・・! 足らんわっ・・・ まるで・・・!!」

*『乙女ケーキ』をダシにぐだぐだ
 百合の先輩はBLだが、タカハシマコの出身もBLだ。彼女のBL単行本(『泣いちゃいそうよ。』『ドーナツ通信』など)を読むと、殆どの作品が「キスをしてハッピーエンド」である。すれ違いつつも、思いを通じ合えた、めでたしめでたしである。これは「強姦されてハッピーエンド」の後退した変奏に過ぎないが、経済的でよろしい、と褒めておく。
 ではタカハシの百合はどうなったか。意匠を抜き出しながら、百合のありうべきドラマを探ってみる。
 決まり事として、百合に必ず出てくるつがいの少女のうち、主人公をA、片割れをBとする。

○あかいかさ、しろいかさ
[下校・雨・傘・紅白・教室の花瓶・花]
 Bは傘をなくしている。当然、終盤まで買わない。ギャルゲーだと、Aと相合い傘したいBが、わざと忘れてくる(乃至本当に傘がない)下校イベントが繰り返されるだろう。
 [雨・傘]で思い出すのは『ONE』の里村茜と『シンフォニック=レイン』と大島弓子の『綿の国星』の第一話冒頭の「春は長雨」と第四話のケープ。ケープはまあ母性なんで今は関係ない。『シンフォニック=レイン』はpiovaメーターなんてものがあるくらい大がかりだけど、茜同様に[雨・傘]はヴェールであり孤独のスイッチだ。『シンフォニック=レイン』の孤独はゲーム開始前に主人公が恋人を喪ってるとこから始まってるので、ゲーム中はずっと雨が降ってる。『ONE』はというと、想い人が消えてしまった里村茜が雨の日の空き地に突っ立ってて、茜にとっての雨、茜の視野は『シンフォクニック=レイン』の主人公のそれと全く同じなんだけど、浩平に乗り移ったPLから見ると茜が[雨]なんだ。茜の孤独も浩平の孤独もとっくに始まっているんだけど、ここにいるのにここにいない/何者かを想っている/空き地の少女である茜と同じ場にいることでPLの孤独は始められる。ギャルゲーだとそんな感じ。まあ好きに言ってるだけだけど。
 「あかいかさ、しろいかさ」の[雨・傘]は「秘めた想い・伝えられない想い」程度の使い方で、相合い傘で伝達経路確立と。実際は[花]を入れつつ少しねじ曲がっていて↓

女の子らしくありたいAが、Aの女の子らしさを指摘してくれるBを見出し、
→Bと関わりたいと思う(なぜなら自分が気持ちいいから。自分の少女らしさに酔いたいから)
→白い花を髪飾りのようにあて、鏡を見ているBを目撃、その姿・表情にうたれ、ときめくA(自分が少女として愛されるのでなく、自分が誰かを少女として愛する、初めての体験)
→自分の卑しさに気づいたAは傘もささず逃げるが、Bが追いつき相合い傘する

 という具合。登場人物にとっての百合の芽生えを描いたらしい。それはそれでいいけど、百合は前提なんで、乖離してる印象。百合未満の秘めた想いから始めるのではなく、普通に秘めた想いを[雨・傘]に託す方法は有効。相合い傘しながら、お互いが既に喪われた少女についてうだうだ語り出したら最高。
 [紅白]の使い方は少しまずい。そもそも色は抽象のまま使うべきじゃない。傘や花に付与して具象化してるけど、紅白の概念対立が安い。
 [教室の花瓶]はBに[花]を与えるための道具でしかないんだけど、これは失敗。掃除中に割っちゃ駄目。花瓶は割るためではなく、維持するためにある。美化委員とかが、誰も気づかないけど生けてるとか。で、美化委員たんがいなくなって初めて花がしおれてるとかですよ。あと教室の花瓶ていうと、弔いや不吉も入りますね(cf.『終ノ空』)。


 さて、この書き方だとどうも長くなるので、ここらでエントリー分けます。続きはまた明日。

2006年08月06日

『STUDIO VOICE』 2006年9月号

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スタジオ・ボイス 2006年9月号

「特集 現在進行形コミック・ガイド」ということで買って参りました。
連載中の漫画が60程紹介されていますが、『デトロイト・メタル・シティ』を除いてどれ一つきちんと読んでいないので追試はできません。漫画に限ったことではありませんが供給量が半端ないので、複数人が包括的に書評してくるのはありがたいです。

『デトロイト・メタル・シティ』は何ら新しくないけど、確かに面白い。本当はスウェディッシュ・ポップがやりたいけどやむにやまれず「SATSUGAIせよ」と叫んじゃうデスメタラーな主人公が憎めない。
絵は特に巧くはなくて空間構成も適当なんだけど、キャラが良い感じに画面から浮いてて極端にわかりやすい。平均的容貌からイカレた表情をぶっ放す落差もギャグ漫画らしい。作品内雑誌「アモアム」誌面で、DMCだけでなく「鬼刃」(ヒップホップ)、「金玉ガールズ」(パンク)などが紹介されていたり、小ネタで世界を広げているのも巧い。
KISS的メイクに類する過剰性が直ちにギャグになる現状で、まじめに(制作態度が)過剰なことをやってるのは好感が持てます。日本はメタルファンが多いのに、扱った作品もそういやなかったか。いや知らんけど。


*Scool of Entertainment/神山健治の『映画は撮ったことがない』
スタジオヴォイスを読んで気になったのはこのコーナー。神山氏は『人狼』演出や『攻殻S.A.C.』監督・シリーズ構成の方。
副題は<Lesson5/「良い脚本」とはなにか? その2~「構造」を獲得する>。
押井守が「構造なき脚本はただのストーリーに過ぎず、演出段階でそれを獲得することなど、これまた困難の極みである」と脅すように、脚本は行間に構造を構築しなければならない。たとえば『ルパン三世 カリオストロの城』で、ルパンが美女に弱いのは観客も承知している「設定」で、ストーリーを展開させるための「構成」に過ぎないが、ルパンとクラリスの間に用意された――ルパンが昔クラリスに命を救われた――「過去」のエピソードを「劇中の特定の人物と観客しか知り得ない秘密」とした場合にのみ、只の「設定」が「構造」になる。「構造」とは観客とスクリーンないし特定の登場人物の間に築かれる共犯関係といえる。ただし、「演出段階で獲得された構造」も存在して、低予算映画らしいコメディー・スリラーなどの身近な出来事を別口から切り取った作品にまま見受けられる、これを「誤解による展開」と名付けたい。次号へ。

以上が主旨。
私は拙い漫画をひりだしたり、友人の小説の推敲や構成を手伝う関係で似たようなことを考えるのだけれど、この「構造」を個人的には「内的必然性」とか「文脈規定」と呼んでいる。女好きのルパンが美女と出会い、モチベーションを得て物語にコミットしていく基本構成に、ルパンと美女クラリスの因果が与えられると(登場人物が自覚しているかどうかは関係なく)、ルパンは過去・人格を獲得し、恩返しという文脈を孕みながらクラリスを救おうとする。その行動は彼にとっても観客にとっても必然である。作品に通底する文脈が見いだされれば、観客の読みのガイドとなり、そこにおいて作品内の「出来事」は説得力を持ち「物語」もしくはそれ以上に昇格する。
「構造」の実態を見ていくと、視聴者・読者の読解を意識したメタレベルでの関連づけというひとつの側面が現れる。これを押し進め、結局設定水準にしてきたのが構成小説であるミステリーで、登場人物の名前による人格規定やアナグラムによるネタの暗示等、強引な関連づけには枚挙の暇がない。現在、ミステリーに限らずメタリレイションはよく見られるが、ゲーム的リアリズムが市民権を得てきたことと無関係ではない(バトルロワイヤルや山田悠介などのデスゲーム作品を見よ)。そのような作品においては、種をまかれながらも読み取られるに任せていた「文脈」が、明示されたルールにとってかわられている。だからデスゲーム系は偽物だ、というわけではなく、山田悠介はルールで遊んでいるだけだから偽物だけど、バトロワは根源となるBR法が「グロテスクな社会制度」という批評性が見いだせて意義があるから翻って「内的必然性」に至っているから本物だろうと。
ゲーム的構成もガジェットのひとつとして回収されたりサブジャンル化していって、じゃあなにも変わってないじゃん、安易な関連づけで「構造」を獲得できないのは今も昔も変わらないね、とは思うけど一段階経た昨今は別の無化効果が働いている気がします。でもよく考えてません。
つうわけで場つなぎエントリーでした。

2006年07月23日

タカハシマコ『冷たいお菓子』

タカハシマコVISUALコミック作品集「冷たいお菓子」
タカハシマコVISUALコミック作品集「冷たいお菓子」

いいから買え・・・・・・では終わってしまうので、タカハシマコが認知される一助となるべくくだを巻きます。

性的表現を含む。
商業活動は98年辺りから02年まではBLがメイン。02年の『女の子は特別教』(コアマガジン・絶版)からは男性向けにも執筆(正確には、短編集なので01年よりも前からだが)。主な掲載誌はCOMIC快楽天。『冷たいお菓子』(2004/08)・『水色ノート』(2005/07)はそれらの作品集。

BL時代の短編は24p作品が多いが、2002年からの男性向け作品は8pという短さに収められており、緊張感を獲得。情動の鋭利な描写が持ち味。


*絵柄
丸ペンと思われる細く危うい描線。造形は胴・手足が細長く、骨張っている。頭蓋のバランスは、顎から上瞼までが3:上瞼から頭頂までが5くらい。等身は5~6だが、胴の幅より頭蓋の直径の方が大きく、繊細な印象と相まって高く見える、けどどう見てもロリ。股の位置は全長の半分、しかしキャラが腰を折った途端に足だけ約2等身伸びるのも特徴。骨格の同一性より印象や高次のバランスが重視されているようだ。
ギャグなどの転調時には糸目になったり低等身化したりするが、少女漫画的。
少女漫画の系譜を汲んでいるが、そうはいっても何パターンもあるので、最近だと「ハチクロ」の絵柄を想像してもらえると良い。
本書は掲載時モノクロだったものを全ページカラー化。配色は淡い。コマ展開を考慮し、重要度の低いパーツや領域は白く残される。


*コマ割り
至って単純。殆ど矩形で構成されており、斜め切りは一篇につき一度あるかないか。
淡々と読みやすいが故に、しばしば冷酷さを醸し出す。
コマ線のないコマ・開領域を使ったコマが1ページに一度は出てくる。ページ単位の印象を和らげ、絵柄のイメージと適合させている。この開領域は場面転換に使われる場合が多い。各々のコマ内容だけで判断すれば交換不可能ではないが、ページ全体を見れば適切な位置に配置されている。


*演出
テーマ性はひとまずおいて、それを効果的に伝えるタカハシマコの方法意識を一言すると、
“日常と地続きな、雄弁な情景の抽出”
8pという短さながらも、主人公の少女らの来歴を想像させる下地を形成し得ている。これは強固な日常性、体験の普遍性に支えられている(お風呂、下校・寄り道、窓辺の少女、など)。脚本は、説明的・独り言過剰の嫌いはあるものの話し言葉にブラッシュアップされており、十分日常的で、次第に核心的となっていく。
『女の子は特別教』の作品群は情景の解釈を試みるべく不躾なモノローグで締められる傾向があったが、こと『冷たいお菓子』においては語らずして語り切っており、「状況の設定」を越え「情景の抽出」に値し、方法論は完成を見ている。事態の核心・ラストシーンがどれだけグロテスクであっても、日常と地続きに突きつけられたそれを我々は受けとめざるを得ない。かいまみる切断面の凄艶に酔え。

>『女の子は特別教』は未熟なりの歪み、構成の不備と過剰なダイアローグやモノローグの結託による自壊が発生し、ときに自己言及性・批評性に至っている。エントリーを改めて記したい。


*物語(※本項からはネタバレを含みます)
アマゾンカスタマーレビューで「百年の孤独」氏が本書の急所を端的に記されている。

“ストーリーは相変わらず全ロリコンを鬱に叩きこむ冷酷な話。例えば町田ひらくの描くマンガが、男性を性的搾取者と位置付け力強い加害者であると嘯き、読者の背徳感を煽ることによってエロを増幅させているのに較べて、彼女の描く男性は少女の無知や弱さにつけこんで快楽を剽窃する社会不適合者であるに過ぎず、憎むべき存在としては描かれていない。蔑みすらもなく、ただ災厄に見舞われた少女の姿が描かれ、災厄たる僕たちに対する諦めのため息が聞こえるのみである。僕たちは歪んでいて、彼女に憐れまれてすらいる存在なのだ。”

アマゾンなんて人目につくところにこの水準の言説がある以上、わざわざ僕が語るのも烏滸がましいのだが、気を取り直して続きます。あと「剽窃」は誤用じゃないかな。比喩と言われたらそれまでですが。

なんといっても少女達の男に向ける視線の無味乾燥が素晴らしい。僕等はまるで対等じゃない。
本書のみならず現在タカハシマコの最高傑作であろう『カチカチ』。諸氏には原典を味わって欲しいので詳細な解説は避けるが、父子家庭の娘「桜」が行きずりの男「小宮」に「――小宮さん   私のこと 食べたい――?」と放つ貌の冷徹さよ。見透かし、関係の唯一性を全く信じていないにも関わらず愛を希求するイロニー。随所でリンクし、テーマを広汎にしながら凝集する「カチカチ」の音韻。美味絶佳、これを8pでやられてはぐうの音も出ない。
褒誉はほどほどにして、描かれる男性像は一貫して子供じみ、身勝手で、無力である。
『あわあわ』のラスト、少年の義姉への呼びかけはけっして届くことはない。少女達が男を信頼することはあり得ず、気紛れに寄り添ってみるも求めているのは形無き亡霊。この冷酷さは男性への痛烈な批評だ。


*総評
“私の妄想なんですが『萌え』って「人扱いしない人でなしの心」と個人的に思ってるので、大変申し訳ない気持ちです。”
巻末の作品解説の言葉です。
対象人物の属性にフェチを見いだし倒錯し続けるのが、萌える基本姿勢だと思います。
男性向け成年コミックを描くにあたって近年『萌え』は避けて通れない概念で、これを作者なりに弁別した上で描くからこそ、ドライで芳醇な作品を生み得たのでしょう。『冷たいお菓子』の少女に僕等は否応なしに萌える。ガリガリに痩せていたり、性的虐待を受けたり、身体の欠損に萌える。美少女の身体的特徴(性格的特徴でもいいのだけれど)に無遠慮な視線を注ぎ続ける。
低次元な啓蒙になって申し訳ないが、一瞬で忘却される消費財だけでなく、オートマティックな消費行動を評価し目を覚まさせる作品も作られねばならない。視線の対象である女性の手で萌え批評となる作品が描かれたのはいいとして、男性からはどうだろう。
例えば山本雲居は、社会的・倫理的制裁を受けずに幼女をレイプできる設定を手を変え品を変えぶち上げる。精液を注がないと死んでしまう「膣涸れ病」が突如蔓延するとか、女性でなくとも怒り出すのを宥め得ない言語道断だ。けれどそれを自慰専用の良質なシチュエーション漫画としか読まない人を僕は信用しない。不潔で不愉快な漫画と切って捨てる人も、思考を手放さないで欲しい。山本雲居は登場人物を特殊な環境下におきながら女性の内面も男性の内省もあらゆる葛藤も徹底して排除し、レイプの行われつづける事態を刻々と描写する。この徹底性、即ち意図されたものは、行為者と被行為者への批評として読まれねばならない。「このキャラはかくも無法な行いに対し、どうして疑問を感じないのだろう?」、読者は自然と思うはずだ。ここにおいて山本雲居は、人間の意志決定におけるモデルの自明性を問うている(Ω Ω Ω<な、なんだってー!? )。
ここまで拡大解釈するのは誤読に違いないが、山本雲居作品の面白さが自明性の喪失に通じているのは、僕にとっては真実だ。作品内の不道徳極まりない数々の常識と局地的あるいは社会的通念、またそれを甘受する男達と女達。では道徳的であるとは?
萌え=男性原理への批評にしても、女性であるからアプリオリに弱者で被収奪者だ、という認識はそれこそ冒涜なのだ。宿命的な弱者と言わなくとも、女性性に無根拠な特権を読み取るスキームは確かに存在しているし、また男性性も同様だ。
この文脈において、僕は流行の萌え『女装』に期待している(ホントだよ~~)。女性的身体は萌えの前提条件だが、「穢らわしきY染色体を持つ」我々にとって女装という幻想充足的行為は不可能性への企投なのだ。女性的身体という幻想を搾取しつつも憧憬する我々は、同一化の企てによって内省を迫られねばなるまい。
女装ギャルゲーのエポックメイカー『処女はお姉さまに恋してる』は、如何に女になりきるか・バレたらどうしよう・慕ってくれてる女の子にバレちゃったよどうしよう、という塩梅で女装の醍醐味を適度に入れつつエンターテインメントした佳作なんだけど、不可能性だとか超越的なものには一切累が及ばない(だって天然な瑞穂きゅん見てても“こんな可愛い子が女の子のはずがない!”としか言えないでしょ?)。『はぴねす』の渡良瀬準は天無二日のヴィジュアルで、見るだけでどんな朴念仁でも実存(女性的身体)が本質に先立つって悟っちゃうんだけど、本質には踏み込んでくれない。
そこで『ゆびさきミルクティー』(宮野ともちか)ですよ!!
主人公の池田由紀は第二次性徴をきっかけに、大切にしたいと思ってる幼なじみの森居左を傷つける主体になろうとしていることに気づく。アイデンティティークライシスに揺れながら女装に没頭していく。理解者でありフラグも立ちっぱなしの黒川水面に自分のウィッグをつけてもらおうとして(なんたる身勝手!自己愛!)憤然拒絶されたり、近頃は素でも女の仕草が出ちゃって親友・高槻亘をときめかせたりと無体が過ぎるが、それでも彼は自己の性を見つめるところから出発しているのだ。宮野ともちかの瑞々しい描線、魅力的な表情、ばかげて真摯な言葉、あざとかろうと突き進む比類無き演出はいつか、我々の抱える諸問題を切り刻み足蹴にしてくれるだろう。
その運動が終焉を迎えたとき参加者が振り返ったならば、身体と精神は新たな見地に届いているはずである。



『冷たいお菓子』の少女。彼女らの視線は男を通り過ぎ、愛の亡霊を見ている。それは萌えと似て非なる視線で、断片たる属性ではなく相互理解を始めとした不可能性へのロマンに根ざしている。
いつか手にしたい愛を見つめる『冷たいお菓子=冷酷な少女』は、美味しい。