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2007年07月27日

祝!『リトルバスターズ!』発売

リトルバスターズ!
 諸君。喜んで欲しい。
 今日はKeyの新作『リトルバスターズ!』の発売日である。
 Keyは、私にとって最も特権的なナラティヴの送り手である。
 私は彼らにギャルゲーの可能性を見続ける者である。
 『ONE』から一貫して、彼らの作品の前半はスラップスティックの日常で占められている。ギャルゲー的日常である。それは終焉を約束された日常だ。日常は破壊されうる。家庭の事情、天災(地震雷火事親父)、人災(強盗強姦殺人戦争)、その他諸々の外圧、そして時の流れ。日常は所与のものではない。日常とは本来、そういった脆さを備えている。
 その脆さをあざ笑うかのように/祝福するように、Keyの作品は必ず日常を破壊する。超越的な、不可視の力によって破壊する。だからこそ日常に意義を与えうる。
 私はギャルゲーを好むが、ある時期からお気楽で愉快な日常パートを読むのが耐え難くなった。何一つ愉快でなくなった。それらの幸せで輝かしい日常は、作品内部において所与のものでしかなかったからだ。それらの根拠はジャンルに“しか”なかった。そのようなテクストは、系の内部においては一つの解釈しかうまない。すらすら意味がわかり、またそれ以外の意味を持たないテクストの何が面白いのか。
 日常が所与のものでないことを示すには、破壊するか、既に終わっていたことにするかのどちらかだ。
 既に終わっていた作品には、例えば『CROSS†CHANNEL』がある。日常を回復しようと試み、失敗する話だ。なぜ失敗しなければならなかったのか。それは既に終わったからだ、と答えよう。
 既に終わっていた作品をもっと巧妙にすると、終わりの内在された物語になる。実際のところ、これが普通の物語である。

 破壊の話をしよう。
 日常を終わらせるだけなら誰にでもできる。ヒロインと恋仲になればいい。ハッピーエンドだ。そこから始まる物語を放棄するなら、一丁上がりだ。幸せで結構だが、あまり面白くはなさそうだ。
 そこでKeyである。
 Keyは日常を、完膚無きまでに破壊してみせる。それも理解不能な方法でだ。無根拠な力で、時には伏線さえはらずに。だから人はその理由を作品の内外に求める。そこに誤読の余地がある。それは紛れもなく、豊かさの契機だ。だから、Keyのこの手法への拘泥を私は肯定する。キャラクターとの日常を手放せないギャルゲーだからこそ、彼らの残酷さが必要だ。
 しかし同時に危惧もしている。
 『AIR』の時点で、Keyはひとまずその歴史的使命を終えた感がある。Keyは生まれ変わる必要がありそうだ。事実そうなりつつある、が路線変更ならいらない。Keyの本質、私が情熱の眼差しを注ぐあれこれに根ざした、発達的変容であって欲しい。それはとても困難な道だ。『ONE』の形式的完結を越えることなぞ、到底できそうにない。それでも・・・・・・
 『CLANNAD』の破壊は、渚のいたって現実的な死によって行われた。破壊にもヴァリエーションを作らざるをえないから、それはいい。各キャラシナリオにおける破壊も、同様にそれぞれの現実的な都合によって行われた。凡庸のきらいがあるが、これが『CLANNAD』の構造であり、認めるものだ。
 だが、「幻想世界」と「街の意志」はどう処理されたか。人々の願いや想いを受けとめる「街の意志」が明らかに軸だった。その周りで、「幻想世界」は根源的な機能を果たさず、全く静止していた。尾てい骨でしかなかった。では排除すればよかったというと、そうでもなかった。できたらやっていたに決まっている。Keyはそれほど愚かではない。「街の意志」という超現実的な力場は、渚の復活という現実的な力をふるった。はっきりと言おう。そのためだけにあった。これは予め決められた失敗だ。祈ったことをそのまま叶えてくれる神は、神ではない。それは悪魔だ。もちろん、渚の復活の影にはいくつもの見過ごされた願いがあったろうから、この悪魔崇拝は希釈されている。しかし、シナリオライターはその臭いを無視できなかった。別の香りでごまかす必要があった。そのための「幻想世界」なのだ。「幻想世界」は孤独な、取り残された、取引のない世界だ。これを「街の意志」と相克させることはかなわなかったが、その存在がかろうじて『CLANNAD』を人間の領域に、価値ある領域にとどめていた。
 『智代アフター』はどうだろう。
 『智代アフター』の破壊に、伏線はなかった。主人公に訪れた、あの呆れるほど唐突な破壊。誰もが「(゚Д゚)ハァ?」となるあの破壊。確かに言語道断だろう。どう受け取っていいか態度を決めかねるどころか、「なかったこと」になっているか、「『ONE』で似たことをやっていた、卑怯な形でお家芸を出された、仕方ないな」というところで落ち着いているのだろう。
 しかしである。
 ちょっと検索してみたのだけれど、誰も言っていないようだし、ここできちんと言っておく。
 『智代アフター』のOP後、主人公が部屋に戻ると「とも」がいる。隠し子がどうのと一応理由付けはあるが、なし崩しにというか強引にというか、とにかく「とも」を娘として迎え、生活していくことになる。この展開も「(゚Д゚)ハァ?」な印象を与えるものだ。もちろん『智代アフター』(の大半)はそういう物語だ。「とも」を受け入れ、現実的な困難と折り合いながら、いずれは元の鞘へ還していく物語だ。だが、その導入はあまりに“唐突”なものだ。主人公の破壊も“唐突”だった。この重要な、作品にとって最も根源的な「突然の邂逅」によって作品の最初と最後が始まっていることを見逃してはならない。この一致は必然である。この構造的一致に比べれば、ストーリーから引き出せるいくつかのテーマなど、どうということはない。「永遠に続く愛はある」ことを証明するために、主人公や智代は執拗な、正に狂気の領域にある努力と継続を見せ続ける。しかしそれは運命のいたずら、「突然の邂逅」によって物理的・実際的には断念されるのだ。「運命には抗えない。現実とはそういうものだ。しかし諦めない姿は尊く美しい」ということを教えてもらって面白いかというとそうでもないが、少なくとも『智代アフター』の「突然の邂逅」と「意志の力(努力と継続)」の二重奏は、十分強固で徹底されている。この徹底性に私は感嘆を禁じえない。


 さて。『リトバス』である。
 以上を踏まえて、『リトバス』への期待をいくつか。

・棗鈴たんに「めっ!」ってされたいっ!!
・クドに「わふー」ってされたいっ!!

 というのも全くの本音であるが、真面目な話、麻枝准が担当する棗鈴シナリオ、そしてツートップのもう片方、神北小毬シナリオ(こちらは都乃河勇人担当)。この二つがどのような対の構成を見せてくれるかだ。
 タイトルの「リトルバスターズ」は、主人公ら男性陣と棗鈴が幼い頃に結成した悪ガキ愚連隊からくる。つまり、「過去」が用意されている。この過去は、なにか幻想的な、例えば夢のような経路によって「現在」を“包んでいる”はずだ。その中心にあるのは主人公と棗鈴であり、二人がかつて偶然に交わした超越的な何かだろう。そしておそらく、大切なもの(例えば他のヒロイン達)を断念していく話になるのではないか、と思っている。CLANNADも智代アフターも諦めない話だった。リトバスでは諦める話を見たい。
 棗鈴と対になる神北小毬は、「現在」を代表するキャラだろう。彼女の特権性と棗のそれは対立してくれるはずだ。今までもKeyの作品には対となるヒロインたちがいた。栞と香里、美凪とみちる。しかしそれらには主従の別があった。栞や美凪が主だ。そして、実はそれらの関係性の間に主人公はいなかった。今回はいるか、いようとしてくれるか。
 対といえば先述の「突然の邂逅」と「意志の力」のように、作品の根源に関わる「超越的なもの」と「キャラクター・人間の水準」もそうだ。これも「超越的なもの」が主だ。今回はそういった力関係の差をなくしたものが見たい。「超越的なもの」同士の戦いだ。人間を包んでいる、人間の業に根ざした、超越的なもの同士の戦いだ。
 あまりろくなことは書けなかったが、これが『リトバス』への期待だ。


 リトバス発売の祝辞の割にはいささか長く脱線したようだが、これが私からの精一杯の声援である。
 『この街と、住人に幸あれ。』

2006年08月23日

フォーマットの展開からみたギャルゲーの歴史

フォーマットといいますと、テキスト・選択肢・立ち絵・背景・音楽というシステム構成確立後、その新しいフォーマットからなにが必然的に生まれたか。プレイスタイル故のシナリオ・キャラの制約の発生と推移、それを逆手にとった自己言及的シナリオ構成。こういったメタ現象としてギャルゲー運動をとらえる総合的な意味の「フォーマット」です(頭の悪い文・・・)。

YU-NO、同級生・下級生等のエルフやC’sあたりの系譜はとりあえず無視。アリスソフトも放置。グリグリなど、ヤマグチノボルや桑島由一のコミカルなライトノベル系も押さえてません。戯画の丸戸史明も。最近の作品(『群青の空を越えて』など)も押さえ切れていない。
参考文献は『美少女ゲームの臨界点+1』等。沙耶のとことか、一部そのまんま引用。
一息で概観がつかめるよう、あえておおざっぱに書いてます。
今更感漂ってますが、一度まとめておきたかったので。
力一杯ネタバレです。


*雫(96)
オカルト・思春期的シナリオ世界観を駆動。文学表現を初めてやった。
選択肢構成は「不可能性からの脱却」。プレイヤーはバッドエンドから学びつつグッドエンドへ、しかし全てがうまくいくわけではない。その渋みがギャルゲーなりの文学性のひとつ。

*痕(96)
ポルノメディア・キャラクター消費の要請から複数キャラを攻略可能にしなければならない商業的制約をいち早く察し、攻略の順番を設定し、各キャラを消化しながら、最終的には統一的な世界観が浮かび上がる構成美。選択肢構成は抜群。

*To Heart(97)
キャラクター消費の側面をデータベース化(日めくりカレンダー形式など)で応える。非現実的設定のキャラクターを包み込まずに許容する微温的ゲーム。また、クリックや選択肢に対応したCGの表情変化のアクション性は早熟な決定版。コミュニケーションの方法論を確立した。恋愛ゲームのフォーマットを事実上この一作が規定する。

*WHITE ALBUM(98)
ユーザーの動機上は、ギャルゲーはキャラを攻略するためのものである。では、ゲームの冒頭より主人公に「彼女」がいたらどうなるか? というカウンターと、そこから生じる真っ当なエンターテインメント・ドラマ性。

*ONE~輝く季節へ~(98)
奇形的キャラ造型(属性、特殊語尾等)を意識的にやった嚆矢。日めくりカレンダー形式を採用し日々を漫才のように描きながらも、日付変更の合間に夢らしき・過去のトラウマから発祥した幻想世界のような「えいえんのせかい」の情景を挿入する発展的構成。最終的に主人公はその世界へ旅立ち、元の世界(ゲーム内の物語空間)から忘却されるが、攻略したヒロインだけは彼を覚えており、そのおかげで元の世界に帰還する。このとき、主人公は物語世界の存在ではなく、プレイヤーそのものと同一化しえた。東浩紀にいわせると「メタリアルフィクション」の誕生。

*Kanon(99)
キャラ毎のシナリオが統合されないで、各々のイメージが先行していくのが少し新しい。構造的に特に新しいことはやっていないが、音楽・テキストのリズムを一体化した演出の決定版。

*AIR(00)
ギャルゲーには「複数のキャラクターとコミットしたうえで誰かひとりと盟約関係を結ぶ」構造が求められる。この不可避性をシナリオ上遂行不可能にし、現在・過去・現在’の三章構成を用い、進行状況によってゲームトップ画面を変化させるパッケージング。
ギャルゲーフォーマット(システム、キャラ、シナリオ総合してだが、特にシナリオ)の批評的切断面。少女幻想の限界を提示。

*加奈~いもうと~(99)
難病の妹がヒロイン。妹をとるか、倫理的にも他の女性をとるべきかの葛藤が主軸。終末医療の当事者の感情が丹念に描かれていて、堅実。ご都合展開もあるが、ギャルゲーシナリオとしてリアリティの質が別格。
妹萌えの金字塔でもある。

*ケロQ(『終ノ空』(99)、『二重影』(00))
終ノ空は現象学や記号論理学、二重影は日本書紀+剣豪モノの伝奇+陰陽五行説+文字の魔術性など、学術性や歴史性のある理論をそこそこの説得力で持ち込んだ絶後の硬派な作品。
終ノ空はテキストをヴィジュアライズして用いるギミックを初めてきちんとやった。多視点のシステムは成功したとは言い難いが、作り物めいた・終末めいた毒々しい空に浮かぶ眼球(ないあらとほてっぷ)、その視線と、「語りえぬものには、沈黙しなければならない」というヴィトゲンシュタインの言葉をうけて主人公が「見つめるんだ」とする結論とあわせ、名状しがたい収束をみせる。
二重影の広義のエンターテインメントとしての完成度は随一。
イル・スイは双子萌え、北条主税は女装萌え。早い。

*月姫(00)
伝奇・新本格ミステリーなど、別のシナリオ体系を初めてきちんとギャルゲーに翻訳し駆動させた。キャラクター小説的なエッジのきいた記号的設定(直死の魔眼など)の横溢する想像力が素晴らしい。

*みずいろ(01)
セピア調の過去編から始まり、この期間の選択肢によって現代編の攻略キャラへ分岐する構成は特筆に値する。キャラ萌えを強化するために、過去の共有によって感情移入をなそうとする真っ当な姿勢。
既に陳腐化しているとはいえ、進藤シナリオは良くできている。他はまずまず、ラストのボーカル曲もまずまずだが、当時はこのしっとりとした曲にやられた人が大量に。

*君がのぞむ永遠(01)
典型的学園パートから始まる、ようで実際はメインヒロインと恋仲になるも彼女が事故で植物状態になる第一部。第二部は数年後、主人公は事件の影響で廃人になったけどなんとか立ち直ってフリーターをしつつ学園時代の別のキャラとつきあっている。そこでメインヒロインが目を覚まし、板挟みに。
選択肢の意義を再検討。ギャルゲーシナリオのカウンターであり、同時に恋愛ドラマの王道。また、システムを改良した演出(ズーム、パン、キャラのスライド等)。

*未来にキスを(01)
ギャルゲーにメタリアルフィクションとしてのセンスオブワンダーを見出し、いち早く意識的にメタフィクションをやってきたシナリオライター「元長柾木」の到達点。
典型的恋愛ゲームのフォーマット(露悪的なキャラ造形・物語)を採用しているが、メタ言及的対話によってプレイヤー←→美少女のコミュニケーション・恋愛の虚構性をあぶり出し、現実のコミュニケーションとそれらを我々は“感情的に”区別できないという冷徹な認識へ敷衍した。
僕等がギャルゲーをプレイする、行動そのものへの回答。萌えのディストピア。

*家族計画(01)
キャラ萌えとストーリーを両立させた超良作。
Keyと似て非なる抜群のキャラ配分と痛快なテキストが長いシナリオを飽きさせない。王道ながらも手強いテーマ「家族」をストーリーのみで描く。山田一はここにおいて限界を示しつつも、偉大。
余談だが末莉は「虐待萌え」の創始者といっていいんじゃないか。髪の毛青いし。

*ニトロプラス初期作品(00~02)
銃器燃え、武侠モノ、サイーバーパンク等の文脈を導入。総合芸術としての“小説”。また、一般的なギャルゲーの選択肢だとかゲーム性が見せかけで、必然性の欠如が隠蔽されてきたことを見切っている。

*ジサツのための101の方法(01)
フォーマットの文脈からはずれるが、これもギャルゲーが生んだ重要作品。マイナーだからこそプッシュします。
生の実感が持てない、灰色のノイズに覆われた世界で主人公は日々妄想にふける。ある日授業中に「自殺波動」が世界を襲う。目の前でばたばたと自殺していく級友達。生き残った七人は、外は自殺波動に満ちているのでアルミホイルを張り巡らせた一教室に立てこもる。秩序を保とうとあがきつつも破綻していく限界状況のなか、主人公は夜な夜なヒロインたちの打ち明け話を聞かされる。夢(?)の中では「教授」に「漂流教室の世界は夢。君は病気なんだ」と説かれる。元の学園、自殺波動の世界、教授のいる世界、一体どれが本当なのか?
選択肢はお世辞にも練られているとはいいがたく、システム周りも稚拙。ラストシーンは「壁の向こうの光」に包まれる、はまれば圧倒的だが嘘くさい終わり方。
しかし、ヒロインらによる来歴の語りは驚くべきほど正統派な文学的強度を持っている。家庭不和、性的虐待、動物虐待、同性愛、自殺願望、自分にだけ見える猫の“エンジェル”とその喪失。むき出しの文学要素とそれを支える優れた洞察を見せる語り。オーヴァードーズを起こしかねない文学性は極北。
小説的なテーマ性と文章表現において、この境地に至った作品は他に『CARNIVAL』(04)くらいしか見あたらない。

*D.C.(02)
 更科が『AIR』と対峙した男を「あらかじめフェミニズムによって去勢され「零落したマッチョイズム」を抱え込んだ」と表現したように、00年の『AIR』の影響は非常に大きく、これ以降反動としてマッチョイズムによって美少女に「母」を強制する、学園物が多数現れる。
 『みずいろ』(2001年4月)『グリーン・グリーン』(2001年10月)『Wind -a breath of heart-』(2002年4月)『それは舞い散る桜のように』(2002年6月)と似た形式の作品が続き、これに続くのが『D.C.』(2002年6月)だ。
 とくに芸のないキャラ萌え作品で、際立っている特徴といえば、散らない桜という日本人にとっていい意味でも悪い意味でもとても多くのものを連想させるアイテムを上手く取り入れ、ファンタジーの強度を増した点だろう。ただし、ストーリーの根幹となる桜にかかわりの深いのは朝倉音夢と芳乃さくらの二者だけくらいで、ほかのキャラクターは、何のつながりもないところで悲劇性が設定されてしまっている。この点だけ見ても、中途半端な感があるが、典型的な作品の中ではグラフィックなどが相当に高水準だったことが、ロングヒットと続編につながったのではないか。とくに七尾奈留の描くキャラがオタクに入りかけの中高生にとっては、入口として有用に機能したのではないか。まあ、このへん確証も何もないわけだが……。

*水月(02)
『Canvas ~セピア色のモチーフ~』(00)の「君影百合奈」シナリオで才能の片鱗を見せたトノイケダイスケの出世作。
失禁放尿のオンパレードで、尿属性を定着させた。吐き気のするほど甘ったるい、しかしはまれば未曾有の恍惚へと誘う優しい文体のおかげ。二者関係に悩むことはあっても自分を傷つけない内省しか存在せず、ロリコンとマザコンを全肯定する驚異のテキストはもはや圧倒的楽園。手遅れな動物的袋小路。
☆画野郎の超絶萌え絵、柔らかいタッチと色のグラフィックと相まって、民俗学と観測理論をモチーフにした幻想世界を構築しかけるもシナリオに粘りがなくどこにも至らない。しかし、その何物でもない世界がまさにギャルゲー。『To Heart』で構築されたフォーマットが『水月』において世界観の水準を加えて完成されている。蛇足だが「水月:じったいのないことのたのえ」。
なんら納得のいく説明無しに主人公を世話するメイドの雪さん=母性は今日もおいしいご飯を作ってくれる。尿も飲ませてくれる。琴乃宮雪は地域の幻想種たる「山の民」で、彼らが駆逐される危機に主人公の父に助けてもらった、という一応の説明はあるけれど、「山の民」はやはり何物かわからない。メインヒロイン=「少女幻想のアーキタイプ」である那波も関係してくるとなると、「山の民」は「美少女村」かなにかなのではないのかこんちくしょう。
この得体の知れなさは「(*゚Д゚)<びっくりするほどディストピア!」。
注意したいのは主人公が記憶喪失で、自分が何者であるかわからないと自己憐憫しつつ雪さんに慰めてもらったり、巫女さん同級生にいたわってもらっていい思いをしたり、白紙性と無垢性に親近感を覚えたか覚えなかったか褐色ロリ双子に近づいたり、親友の小学生にしか見えない妹になつかれながら胸をはだけてもらったりといろいろ手をつくされながらも結局ろくに記憶を取り戻さないことだ。作品世界のみならずプレイヤーキャラも徹頭徹尾なにものでもない。このとき「記憶喪失」はありがちな感情移入をこえて、“水月”は遍在を始める。「で、あの話ってけっきょくなんだったんだ?」

トノイケは次作『さくらむすび』(05)で、神域のバカップルを描ききった。作家として方向性が狭すぎるが、ある意味で一番エロゲーらしいライター。天才の呼称がふさわしい。このまま突き進んで欲しい。

*腐り姫~euthanasia~(02)
一貫してシステムを実験してきたライアーソフトの批評的到達点。
背景のパースと一致させて立ち絵を配置。
ループゲーム。キャラを攻略すると、以降彼女は作品世界から退場する。これを繰り返し、セーブデータ破棄というコマンドを実行しないとクリアできない。
我々はキャラを攻略し終えると、次は別のキャラの攻略に移り、彼女を顧みない。この消費運動をシステム化した露骨なメタ作品。

*Ever17-the out of infinity-(02)
コンシューマゲーム。人気故にPC移植された。
序盤の選択肢「・オレは~~ ・ぼくは~~」でプレイヤーは乗り移る主人公を選択させられる。どちらから見ても同じ事件のようで、次第に齟齬が浮き彫りに。片方は過去(2017)の事件、もう一方はそれを模して用意された一七年後の事態。そうすることで、両方の事件を俯瞰する四次元的存在=プレイヤーを呼び出し、2017年の悲劇を食い止めてもらおうとする設定。「ゲームがプレイヤーを呼んだ」という転倒によって、ギャルゲーの賦性であるプレイヤーとプレイヤーキャラの齟齬を高度な感情移入に昇華した賢い作品。

*CROSS†CHANNEL(03)
ループもの。腐り姫と対となるシナリオ。
登場人物は社会的欠陥品が集められた学園の生徒達。一週間のループ現象(時間も記憶も巻戻る)は、主人公が世を儚んで引き起こしたもの。誰もいない別世界へ遷移する瞬間、主人公が未練をもって部活の生徒達を振り返り見、“観測”した結果まきこんでしまったという設定。その世界ではみんなと仲良く幸せになるという展開はいかに試行錯誤せども起こりえない。これを悟った主人公はひとりずつと大切な“一回の”時間を過ごした後、特異地点で見送り目を閉じ、“観測停止”することで元の世界へ送り返していく。圧倒的孤独の中、記憶のリセットをクロスポイントである祠で回避、世界はリセットされるも学校の屋上で毎週アンテナを建設し、週末にはラジオ放送をする。それは元の世界にも届く。
ライターである田中ロミオ=山田一の特徴としてゲームならではのメタ構成が下手、というか欠如しているのだが、シナリオのみでメタを実現した怪物。
二者関係や特定の人物の世界認識が物理世界のルール改変や危機と直結されるセカイ系作品の金字塔。

*沙耶の唄(03)
交通事故によって認識に障害をきたし、人々や風景が異形の化け物としか見えなくなった大学生が主人公。その醜悪な風景の中、唯一美しい少女として映る存在「沙耶」と交流を深めていくが、彼女は客観的には化け物であり、幻想である。主人公は脳を治してもらうか否か、選択を迫られる。古き良きヴィジュアルノベルらしい、意義ある選択肢と分岐する物語は「キャラは人間じゃない」事実を突きつける。
僕等は障害者なのだろうか? そんなことはどうでもいいけど、オタクとしてキャラクター消費・物語消費といかに折り合っていくべきだろうか。

*Fate/stay night(04)
 おそらく、今までに出てきたノベルゲームの中で最も「大きな物語」を作ろうと意識的であった作品。ステータス画面の英雄の細かなバックストーリーは、大塚英志がビックリマンシールで言及した、物語の断片を集めて背後の巨大な物語を想像するという手法そのものであるし、各国の神話や英雄譚自体が典型的な「大きな物語」である。その英雄譚を集積し、再構成した『Fate』が「大きな物語」でないわけがない。
 ただし、この手法は物語のスケールをあげ、感動を呼びこむのには向いているが、メタ的な言及やパラダイムシフトを起こすことには不適だ。最初期に「大きな物語」を作り上げた『Fate』は十二分に評価に値するが、もしもこの方法が今後も継続されたならば、シナリオのあまりの長文化もあって、多くのプレイヤーは胸焼けするだろう。あと、作品の意味内容とは一切関係のない、日常のシーンでのキャラクターの顔のアップや小さなスクロールなどのエフェクトが続編であまりに多く見られた。こういった贅肉でしか発展を遂げられないところが、『Fate』の目指した方向性の袋小路を物語っている。

*CLANNAD(04)
選択肢への挑戦作。非18禁作品。
ドタバタ的日常の脚本や立ち絵遊びによるキャラ立ちは追随を許さない。
選択肢は膨大で、どれが狙いのフラグをたてるか判断は困難。これを読み解くのがゲームの一側面。紡がれる想いを集め、人々を包み込む町という場が特権化される展開は、ゲーム内に“現実”や“人生”を移し込まんとする意志の現れ。難しいことをやろうとしている。壮大な前置きの後のOPの入れどころも無茶。OP後、トーンが転調し切らず、Keyの持ち味である精神世界的なファンタジーが弱まっているのは残念。

*シンフォニック=レイン(04)
工画堂の音ゲー。非18禁。
とってもやって欲しいゲーム。ネタバレすると楽しめないので、やる気のある人は絶対に読むな。

郷里に恋人アリエッタ・フィーネを残し、架空の楽器「フォルテール」を学ぶために一年中雨の降る街「ピオーヴァ」に上京した主人公クリス。そろそろ卒業演奏のパートナー(ボーカル)を決めないといけない。世話を焼きな恋人の双子の妹トルティニタ・フィーネ(声楽科3年)、成績優秀なファルシータ・フォーセット(声楽科3年)、無口なリセルシア・チェザリーニ(フォルテール科1年)が候補。しっとりと親交を深めていく。教科書通りそれぞれのキャラのトラウマやしがらみを明らかにしつつ、卒業演奏を成功させ奇妙な余韻をはらんだ渋いエンディングを迎えつつ、故岡崎律子作詞作曲の優しいED曲に癒されながら第一部終了。ここまでのハイライトはファルシータ。ファル様の崇高な悪女っぷりは神。
第二部開始。
視点はトルティニタ・フィーネ。彼女は三年間ずっと、アリエッタ・フィーネと一人二役をしてきた。主人公の上京の直前、本物のアリエッタは事故で意識不明。主人公はショックでおかしくなっていて、ピオーヴァに降り続ける雨は錯覚。気分が落ち込むと大雨になる。きちんとテキストエリアの下に「piova(雨)」メーターまである。そういえばファル様にいたぶられたとき大雨だった。
三年間だまし続けていたが、それも愛ゆえのこと。また、これらの事実から遡行的に、第一部におけるヒロインたちの言動が再解釈され、深みを帯びていく。これはもう味わっていただくしかない。
第三部も結構なお手前だけど、まあファル様とトルタに比べればどうでもいい。
ボーカル曲の歌詞とシナリオのリンクが超絶ヤバく、イタリア語のキャラの名前はそれぞれのテーマと密接な単語だし、芸が細かい。さりげなくも玄妙。トーンが地味で退屈だけど、とんでもなく良いゲーム。
ファル様マジ萌え。トルタもちょー健気。リセはまぁ、折檻萌え

新本格ミステリー的なトリック(叙述とシステム、背景と効果音の複合的ギミック)をこれほどさりげなく、滋味深くやった本作は神。主人公に隠されたギミックが明らかになった瞬間、「piova」メーターを起点にシステムそのものが再解釈される。極上の“ギャルゲー”だ。

*CARNIVAL(04)
これも好きすぎて・・・・・・後日プレイし直してレビューします。未プレイの方は読まぬが吉だが、読んだからといってこの作品は揺らがないのでまあいい。

ギャルゲーらしく(なにがらしいのか、論証しなければならないが)、視点を変えてほぼ同じ時間を描く章構成。
視点は一章は主人公。二章は主人公の交代人格。三章はメインヒロイン。
主人公の二重人格設定は早い時期からわかるし、いまどき多重人格はないだろ、とか、饒舌体や唐突な濡れ場や拍子抜けな展開ゆえに、本作を軽んじる方もいるだろう。また、同時間・同展開を三回見せられても・・・・・・という向きもあるだろう。
理解できる意見ではあるが、それらは本作の魅力をくみとるものではない。
確かに『CARNIVAL』のサイコ+クライムノベル的プロットは、陳腐とさえ言える。しかし、その骨組みを肉づけする脚本・文章表現が素晴らしい。犯罪に手を染めた・染めざるをえなかった人、周囲の人々の反応。これらの内面が描かれるコアだ。どれだけ低劣な展開であろうと、その環境におかれた者のなまの反応が描かれている限り、いささかも低劣さそのものを責めえない。しかもその低劣さが、「僕らがこんなになったのは、理由はあって、でもやっぱり理由なんてないんだ」という誠実な生の認識からくるとわかれば、私のこのゲームに対する信頼は伝わると思う。
テキスト。一章の電波文体も結構。二章の、頭がキレるゆえの絶望的な現実認識の痛みも素晴らしい。しかし本領は一章の度会泉との対話と、三章のメインヒロイン九条理紗の叙述であろう。
泉ルートの、日本の近現代文学を下敷きにした(浅学にして特定できない)対話の奥ゆかしさ、これを通して伝えられる恋心とも執心ともつかぬ情感。ロマンチシズム溢れる逃避行。泉は本物の文学少女ですよ。
三章がすごい。冒頭を飾るのは、幼少時のイグサの香りへの愛着と対比して、核家族の洋式新居をよそよそしく思う叙述。文体と洞察が醸し出すトーンの強度が並大抵ではない。この武器をもって、主人公や泉との出会い、共に過ごした時間、共に過ごせなかった時間を回想していく。二章で交代人格視点から経験していたこれらが、違った味わいを見せていく。回想は現在に追いつき、本編における取り返しのつかない事件とそれを越えて絆を確かめるラストシーン。一章で経験済みの、かつてはわからなかった理紗の内面が深くしみる。
私は三章を一番面白いと感じた。洞察力と文章力だけではない。あらゆる要素が、どういうわけか、同じ時間をより鮮やかに描き出していた。それは九条理紗という人間の核にふれる、神秘の体験だった。

この強度は「ギャルゲーらしい」といった構成にいくらかを担われている。
同じ時間を多視点から複数回描く構成がゲーム的であることは論を待たないだろう。もちろん小説でも可能な構成ではあるが、その小説はゲーム的と評される。
この構成は情報の密度を上げるだけでなく、絡み合いが有機的な全体像をつくりうることもすぐに見えてくる。また、ゲーム画面において「章を選択する」というシステムが、章構成にメタ思考を持ち込ませるのも当たり前の話だ。こうしたメタ構成からみると、『CARNIVAL』は「なんとなくこんな形になった」感があり、それは視線の角度を変えてもプロット・骨格上は立体把握の変容が見られないためだ。しかし前述のとおり『CARNIVAL』の核は肉づけにあり、シナリオ立体は同じままに中身が変容し、深まり、内破する。多視点構成への、奇跡的な批評。
脚本家「瀬戸口廉也」は本物だと思った。

『CARNIVAL』の七年後を描いたノヴェライズも素晴らしい。ラストシーンで二人が盟約を結ぼうとも、どうしようもなく人生は続いていく。彼らが生きた人間である限り、この泥沼はついて回る。「ゲームが終わっても終わりじゃないよね、物語が終わっても終わりじゃないよね」をきちんと描いた希有の作品である。グロテスクで、けど爽やかに僕らの生を祝福するラストは圧巻。

エッセイ的になって申し訳ない。『CARNIVAL』はギャルゲーの皮をかぶった文学作品で、でもたしかにギャルゲーで、私はその事実に無窮の感謝をあらわしたい。

*ひぐらしのなく頃に(02~06)
「罪滅ぼし編」までしかプレイしていないことを断っておきます。

紛うことなくゲーム作品。
ループゲーの「一回」を、パッケージをあらためて発表していく連作。
起承転結の全てが変化する。これらを観測したうえで、作品世界に通底するルールを読み解く新しいゲーム。
ゲームそのものが“ギミック”という怪物的作品だ。ギャルゲーの文脈に位置するとはいえ、フォーマットは越えちゃってる。
選択肢無しの一般ゲームで、キャラの攻略はできないが、キャラ萌えは属性とドラマだけで満たしている。古き良きヴィジュアルノベルの音響演出は見事。

*車輪の国、向日葵の少女(05)
現在の最終到達点。『雫』から10年。ずいぶんと遠くまで来た。
超重要なネタを割っていますので、やる気のあるひとは読まないで。

とある強国、犯罪者の更生に重きを置く刑罰制度の「特別な義務」。かつて政治犯がいたために、廃れかけている重罰が色濃く残る隔離された街が舞台。
「異性と身体的接触をしてはいけない義務」、「親権者に絶対服従の義務」、「一日のうち○○時間しか活動してはいけない義務」、を負わされた少女達がヒロイン。破ったら強制収容所いき。
この義務が曲者で、「極刑」として「存在を認められない義務」(喋っちゃダメ、見られるのもダメ)が存在し、これに処された主人公の姉が実は冒頭より登場していたという仕掛けが肝。モブはともかく、ヒロイン・サブキャラ等、立ち絵が表示されていなければその場にはいないという暗黙の了解を突いた。システムを逆手にとったギミックとしては『EVER17』以上の切れ味。
この手のギミックの可能性はもっと検討されるべきだろう。
舞台となる国家の社会制度が特徴的で、官僚制とその上位となる「特別高等人」制度を敷いている。高等人のトップ「哲人」が最高権力者らしい。特別高等人を目指す者はスパルタ式に知識を詰め込まれるだけでなく、様々な職業訓練も強制される。エスカレートした哲人主義。主人公はこのための最終試験を受けるべく、物語の舞台へやってくる。
民主主義や資本主義が問題点を指摘されつつも、今のところかわる制度がないのでとりあえず続いている『歴史のおわり』(フランシス・フクヤマ)以降の現状に対する浅はかなりのカウンターとなっている。
90年代、特に『エヴァ』(95)以降、個人の実存的懊悩に退行しトラウマを扱うに終始してきた中では記念すべきコンテクストの転換である。
ギャルゲーで駆動される物語がとうとう社会に言及するようになったかと思うと隔世の感がある。この作品がテーマ選択の転換点となってくれることを願う。

もう少し詳しく見ていく。
ギャルゲーの構造的必然で、各ヒロインに小テーマを割り当て、メインヒロインかラストシナリオにおいて統括する大テーマを入れると収まりがよい。これは『痕』で規定されたのち、『AIR』のアクロバティックな構成において少女幻想を純化し破綻させることでひとつの決着を示した。『AIR』以降も小テーマ→大テーマの流れは存在しえど、そのテーマ性の貧しさは目をおおわんばかりだ。
『車輪』は九割超を占める全五章の共通パートと、ラストのおまけ程度な個別パートで構成されている。

一章:学園パート。世界観導入。やがて失われる愉快な日々。モラトリアム。
二章:「三ツ廣さち」パート。労働と時間の有限性。自己実現と姉妹愛の話。
三章:「大音灯花」パート。自立と虐待と血縁の呪縛。親子愛の話。
四章:「日向夏咲」パート。主人公の姉「樋口璃々子」についての回想から始まる。主人公の原体験において精神的支柱であった夏咲(現在極度の対人恐怖症)を回復する。愛の話。
五章:ラストパート。ヒロイン達と脱出をはかる。自己の超克と社会との対峙。

とまあこんな感じ。聞くだに危なっかしい。迂闊に手を出せないテーマを扱っている。しかしきちんと描いている。ちょっと露骨なんじゃないか、うまくまとめすぎで嘘くさいよ、というのは否定できないが十二分。この手腕は本筋ではないので解説しない。
上記の通り、小テーマを扱う順番は決められている。ヒロインの更正を補助するためいかに行動すべきかが選択肢の意義。誰とセクロスするか、くっつくかの選択肢もあり、一度くっつくと以降のキャラとはくっつけず、おまけ個別パートへの分岐も決まる。純愛ゲーム臭い。個別パートの物足りなさ、とってつけた感を否定する意見も多々聞くし、シナリオ全体の中にとけ込ませられなかったのは確かに瑕疵ではあるが、ひとえに商業的要請ゆえであり、脊椎反射でお定まりの文句を言うやつは自分の消費行動が業界に与えてきた影響を内省してから発言して欲しい。ぶっころすぞ(舌っ足らずに)。
注意すべきは各シナリオにおける、主人公とヒロインの距離感だ。主人公はあくまで特別高等人候補生であり、カウンセラーの位置にとどまる。それぞれの物語の佳境、「三ツ廣さち」と「まな」の義姉妹愛、「大音灯花」と「大音京子」の親子愛、主人公はこれにつけいることが決してできない。一般的なギャルゲーの個別シナリオが、ヒロインに全幅の信頼をよせられ、永遠の盟約を結ぶのに比べ、『車輪』では節度が守られ続ける。『AIR』が行った「突き放し」を、『車輪』の物語は再び行っている。『車輪』のリアリティの核はここにある。
まあ、オーラスでべたべたするんだけどね・・・・・・

このバランス感覚を可能にしたのが「法月将臣」。とっつあんは「広田寛」(『家族計画』)以来の名おじさんキャラだが、外部性を担っているのは自明だろう。ここは皆さん何かしら言及してるので私が言うことは特にありません。
最後に私的に宣言しておくと、僕は大音灯花を愛しています。灯花は僕のものだからみんな適当なことを言うのはやめてください。僕は昔から虐待シナリオが大好きで、好きで、特に青髪の娘のいとけなさといったらいかんともしがたく、灯花シナリオはミステリー的仕掛けも上々、これをやったら他は読めない虐待シナリオの決定版で、しかも誇張無しに僕が世界で一番好きな台詞「私は、一生子供でいい!」(マージナル。大人と子供の二項対立。桜庭一樹の『推定少女』系)を叫んでくれる彼女を愛さずにはいられない。ほんとありがとう。みなさんのおかげです。道行く人を勝手に祝福したいです。あなたのために祈らせてください。


***総評***
このエントリー長すぎ。26KBもある。文庫本30pに届きそう。

フォーマットの文脈にまとめるつもりが、作品論に浮気してブレてしまった。批評性と構成の連関がはっきりしてる作品は短く書けるんだけど、長文化した項目は物語から批評性を(恣意的に)読み取っているので、どうしても物語の背景を解説せざるをえない。その辺は評者の思い入れやバイアスを割り引いて読んでもらいたい。
途中まで書いて気づいたのは、私の言う「フォーマット」が漠然としてて、これは先日の『スタジオボイス』のエントリーで言及した、押井守の言う『構造』の話がしたかったんだなと。ギャルゲーはそのシステム固有の傾向の『構造』を構築しえて、ジャンルの発生から今まで、『構造』を獲得しえた作品のそれがいかに推移してきたかを詳らかにしたかった。
精緻に論証できたとは言い難いが、このエントリーを読まれた方になんらかのアウェアネスをもたらせたなら幸いである。

余談だが、『ひぐらし』や『CLANNAD』は非ポルノとはいえ、やはり18禁作品の話をしている。「ギャルゲー」と恥ずかしげにポルノメディアの事実を隠蔽した表現を使っていても、「Hシーン」の存在がプロット的必然性と描写の非扇情性を満たした“完璧な”ゲームは後にも先にも『AIR』だけで、この点は今後も模索されて欲しい。ギャルゲーという形式を私は愛しているし、それらがポルノの側面をぬぐいきれないのは勿体ないことだ。良い作品はコンシューマ移植されるとはいえ、抜本的でない。性的な消費財の作品はこのかぎりではないが。
それではみなさま、よいギャルゲーライフを。

+[24日追記]
一日経って読み返すと『車輪』解説の滅裂さに絶望した。
「システム固有の傾向の~」のくだり、どうしてメディウムというタームが出てこなかったのか。僕は何をやってきたんだ。「ま、あきれけえッちまわア!」(お政)

+[2008/01/25 一部修正]