ご無沙汰してます。軽いネタから復帰ということで。

貴志祐介『クリムゾンの迷宮』(角川ホラー文庫,1999)
佳作。思い入れなぞあるはずもないのできちんと解説はしないけど、設定やプロットを元に思考実験をする。
*導入
主人公が目を覚ますが、なぜ、どこに、いつ、どのようにここにいるかわからない。経緯についての記憶は消されてるようだ。周囲の風景は異様。荷物をみつける。水と食料、そして携帯ゲーム機。ヴァーチャルリアリティの世界かと思ったけど読み進んだら違った。オーストラリアのバングル・バングル国立公園内だった。今は閉園期間。
*以降
ヒロインと出会う。この時点で彼女が黒幕と通じた存在であることは読める。
携帯ゲーム機に指令をうける。どうやらサバイバルゲームに参加しているらしい。
第一チェックポイントにはすでに数人が待っている。みんなのゲーム機にはそれぞれ別のメッセージが与えられてて、ひとまず共有する。ヒロインのゲーム機は主人公と遭遇したときに手違いで壊れている。与えられたはずの情報が得られないのはうまい。これは明示的なものだが、記憶喪失しかり、基本方針は情報の欠如を埋め合わせる運動への誘導。ゲーム・作品世界に通底するルールとはなんであろうか?という軸。
天然の迷宮を探検してチェックポイントを通過していくゲームなのだが、「サバイバル用品」「護身用品」「食料」「情報」のルート選択を強いられる。
主人公とヒロインは「情報」を得ていくために参加者内では超越的視点を持てる。のちに盗聴もできるし、優越性が読んでいて気持ちいい。
おかげさまで比較的容易に食料も調達できる。問題は対人威力の欠如。これがデスゲームの緊張感を担保する。
またゲームは、小説内小説のとあるゲームブックを下敷きに仕組まれたものらしく、件の小説も手にする。虎の巻を握れるのは面白いが、もっと重層的に使って欲しかった。実際的には攻略本であり、メタ的には預言書であり、また罠でもありうるガジェットだったのでもったいない。
その他のアイテムは電池が盗聴の制限時間として機能してたのが良い。全員支給のゲーム機とヒロインの補聴器(胡散臭い!)に共通型の電池が使われていて、これを盗聴器の受信機の電源に流用できる。盗聴器はゲーム機に仕込まれてる。
*締め
金持ちの道楽のスナッフビデオ用に踊らされてたらしい。なんてつまらない合理的説明だろう。正体不明の組織があるのも仕方ないが、主人公は彼らを突きとめようと復讐を誓う。同時に黒幕の駒であったヒロインのことも捜す。小説内小説のゲームブックのトゥルーエンドとだぶらせて終了。普通すぎる。
*雑感
主人公は大手企業に就職してなんも考えなくても順風満帆でいたけど会社が破綻してホームレス同然になってたという設定で、その体験とデスゲームを合わせて人生観についてちょろっと言及したりするが踏み込みが足りない。
主人公は大学でゲーム理論をかじっているらしく、ゲームへの自己言及をアカデミックに軽く入れてるのは佳。でもやっぱり浅い。
そんなこんな読んで残るものはないが、一気に読めたしエンタメとしては高評価。
ではその「読ませる」理由はなにか。
文章は叙情性もため息のもれそうな表現もなく、読みやすいだけの不可のないもの。
生きるか死ぬかの状況設定、ルールの読み解き、情報戦の優越性と威力戦の劣等性のバランスが肝か。
早い段階で欠損情報の存在を演出するのはうまい。読者に参加をうながせる。
こういった設定構築やプロッティングは流用しやすいが、それだけでは成立しないし何を伸ばせるか考える。
まずは「限界状況」。
隔絶された空間で抑制を取っ払った個対個の闘争を演じるにしても、理性の鋳型となる社会装置の逆照射や、生存圏と非生存圏の境界の話はどうしてくれるのかと思った。
以上。
次は「コミュニケーション」。
序盤でヒロインと同盟関係を結ぶまでは、限界状況(正確にはこの時点では白紙状態)下で結ばれる関係性をそこそこ書けてた。ゲームが本格的に始まると他の参加者とは敵対する接触が多くなって、複雑な駆け引きの醍醐味はなかった。敵か味方か不定のままに関係性を描くのが面白いはずなんだが、世に溢れるデスゲーム作品も大抵あっさり敵扱い。まあ難しいですね。
関係性といえばコミュニケーションをどう描くかになってくるけど、日常的に使ってきた対話のプロトコルをご破算にされたあとに代替のプロトコルが形成されていく様が見たい。僕らが普段使っている言葉やボディランゲージやそれらに回収されない空気は学習してきたもので、別の学習過程を見ることは「所与の」プロトコルを問い直してくれる。人物同士の相互作用により想像を凌駕する畸形なプロトコルを形成するかもしれないし案外紳士的なものに落ち着くかも知れない。例えば普段つきあわないような人たちの集まりに参加したとき、会話に入っていけなくて落ち着かないと思うけど、なにも顔見知りがいないとか共通の話題が少ないとかいう問題じゃなくて、そもそもコミュニケーションのやり方が異なっている。関西人が関東に行ってボケてもツッコんでもらえないとか。ちょっとした文化圏の違いでもうプロトコルは違う。だけど外国に行ってもなんとか道を聞いたりできるように、恐らく人類共通の部分もある。じゃあそれってなんなのか。
代替プロトコルを獲得するなかで言葉や振る舞いは変容してくるだろうし、それは人格や身体に影響してくる。これを登場人物が非日常的物語に放り込まれたせいで変わっていった、とまとめるのは勿体ないことで、対話が現実に作用する力に注目したい。
ちょっと泥沼になるので話を戻して、「欠損情報」について。
物語は欠けたものがないと動かしようがない。円満なカップルについて書かれても面白くないし、そもそも円満なんて存在しない。たまたま円満な部分を切り取って並べただけで、反対にあまねく欠損のどれを切り取るかが物語を規定する。『クリムゾン』はゲームのルールらしきものが欠損していて、いわゆる近代小説なら「(内面の)秘密」とかになるんだろうけど、どちらにせよ「隠蔽」されている。で、ゲームのルールだとか犯罪のトリックだとか内面の実存的懊悩とかは正直もう見たくない。となるとまず思いつくのは「不在」「不可視なるもの」「名前なきもの」「非存在」これらを存在するように見せることか。地味で難しいですね。基本中の基本の構成(というかなんらかの秘密がないとフィクションなんて成立しない)をいちいち自己言及的にテーマと関連させてなんていられませんか。
次は「意外性」の話。
アクションシーンの機転を利かせた窮地からの脱出だとか、さりげない伏線が結びつく展開や他愛ないアイテムが重要な機能を発揮する意外性だとかは作劇の基本だろう。ここで内田樹の書いていた「ブリコラージュ的知性」、興味深く読ませてもらったのだけどフィクションの面白さと関係が深いと感じたので絡めて書いていく。
レヴィ=ストロースは『野生の思考』の第一章「具体の科学」で、このような「ありあわせの道具材料を使いまわしして技術的要請に応える態度」を近代人の「科学的思考」に対して、「神話的思考」と名づけました(「野生の思考」とはこのことです)。
ブリコルールの野心は「有限のリソース」から「無限の意味」を引きだそうとするところにあります。
『クリムゾンの迷宮』では、チェックポイントで得られるアイテムのリストとその重要度を教えてもらえるのだけれど、例えば「釣り糸」の重要度が高かったりする。これは野生動物を食用に捕まえるためのトラップに使われる。こういったサバイバルの知恵を前提にして、奪い合うことになる有限のアイテムの重要性が評価される。この評価基準は迷宮の環境を吟味しないと制定し得ないし、現地人が長年培ってきた生活様式が生かされている。サバイバルを描くには道具とも思ってみなかった物を活用する観点が不可欠であるし、さらに前述の「アクションの最中の機転」「伏線回収」「ノーマークの素材が大活躍」だとかの説話論的水準を越えて、作品の根底に「野生の思考」が適用されればその作品は本質的な「意外性」を獲得するのではないか。作劇手法から(恣意的に・・・・・・)見出される「野生の思考」が「神話的思考」と呼ばれているとは小気味よい。神話的思考と説話論の関係をテーマに本の一冊でも書けるのだろうが、これは僕の手には負えない。
趣味的な、しかも一部の人にしか通じない、即ちたとえ話としては最低の話をすると、『ひぐらしのなく頃に』はある期間を選択肢無しで複数回描き、かつそれぞれの「一回」はまったく異なって見えるようになっている。これは「ループゲーム」というサブジャンルと「選択肢」というシステム要素をブリコラージュしたものに他ならないのではないか。『ひぐらし』の破格の面白さは色々理由があるけれど、根底に働くブリコラージュ的知性が僕たちを熱狂させるのではないか。
ブリコルールは「意外性」をもたらす。なにやらトートロジーめいてくるが、「意外性」とは受け手に予測されなかった故に発生しうる、「有限」の作品内情報をもとに「無限」(即ち予測不能)の意味・可能性のうちの一つが結像する、感動的な達成ではないか。注意したいのは作品内のリソース・素材から達成された「イメージ」そのものの新規性(一回的意外性)とは無関係に機能する。
ブリコラージュがジャンルを横断する形で行われたとして、その突破は読者のジャンル認識を変容させてくれる。ここにおいて作り手と受け手は最良のコミュニケーションをとっている。
その類の作品がものされる頻度が件のメディアの活発性と健全性の指標になるので、どうやらまだまだギャルゲーは死んでないな、ってそれが言いたかったのか。
とりあえず以上です。随分と当たり前のことを移り気に書いたけど、その当たり前のこと各々に相応の分量をひねり出せないのはもう単純に勉強不足。フィクションばっか読んどったらあかん。