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2008年04月05日

穂史賀雅也『暗闇にヤギを探して』

穂史賀雅也『暗闇にヤギを探して
穂史賀雅也『暗闇にヤギを探して』(2006~2007)

全3巻。良かったので覚え書きを残す。

身も蓋もなく1行でまとめれば、生徒会長のミリオン先輩と幼なじみの風子と超能力者のまひるが主人公を取り合う話。

春樹っぽい。なんか主人公は冴えない人間だけどもてちゃう。臆面もなく夢で少女と対話する。それは草原のイメージや暗闇のイメージと切り離すことができない。動物に関する記述が多い。
キャラ造詣はラノベらしくしてて、それで春樹的な幻想と運命のお付き合いをするんだから萌えないわけがない。
ミリオン先輩に噛まれるのが実にいい。「先輩はオレのことおいしそうって見てくれてるんですね!」って思うだけで胸が苦しくなるよ・・・・・・

主人公が暗闇を恐怖すること、風子が着ぐるみを着ること、まひるの能力、そういった要素は悉く理由を欠き、足場がなく、無意味である。それが素晴らしい。
百合フラグを過去と現在の二重露出にする詐術も意味がない。だからこの小説は信用がおける。これこれこういう背景があるんです、というエクスキューズを無闇に盛り込まない。
ヒロイン風子を好きになる女装少年「大上/ひつじ」(男性のときは「おおかみ」で女装中は「ひつじ」になっている賢しさもよくわからない)を始め、みんなばしばし出会っては別れていく。両親だって他界してたり単身赴任だったり、帰ってもすぐ出立する。共通してドライだ。なにか他に戦わなければならないことがあるかのようだ。それがミリオン先輩が主人公を諦める小説上の理由になる。
ミリオン先輩は主人公が文字を書いた紙しか固形物は食べられない。そういう設定である。そこから始まってそこに終わる。その病状は主人公を諦める瞬間から緩和していく。このカタルシスを支えているのが上述のドライさだ。より多くの人と関わっていけるドライさだ。ミリオン先輩は人生に必要な技術を一つ獲得したのだ。
まとめめいたものはまあいい。
夜の学校に忍び込むと、少女が自分のノートを食べに教室に来ている。風車はまわり、猫が待っている。そういう空間がここにもあったのが、素直に嬉しい。

2008年01月19日

百合ニュース

ニュースである。
勝手に敬愛している中里一氏の新作がガガガ文庫より刊行される気配である。
私にとってはたいへん良きニュースである。
あんまりいいことが続くので、俺は死ぬかも知れないと思っている。ヤバイ。
『GUNSLINGERGIRL IL TEATRINO』のED曲を麻枝准が作詞作曲していたり、桜庭が直木賞を受賞したり、そして今回のこれである。
中里一氏は私の知る限りで最も百合を理解し、愛し、遠くを見据えている方である。彼の言葉は百合に限らずよきものであるが、まあ今はそれはいい。
とりあえず興味のある方は『歴史のくずかご』を読まれたい。私はこれを読んで世界が広がった。「三位一体のお誘い」である。

2008年01月18日

桜庭一樹、直木賞受賞

桜庭一樹が直木賞受賞である。
たいへんめでたい。
おめでとうございます!!
一報を頂いたときは感極まって挙動不審者とあいなった。
取り急ぎ祝辞をしたためる。

受賞作の『私の男』は実はまだ読めていない。勿論買ってはいるのだが。
『推定少女』に出会い、彼女の描く「少女感覚」に一発でやられ、以来桜庭にぞっこんであるが、記者会見での「少女が大人になったり、大人が少女になったりするものを書いているので、少女から離れようとしているのかも」の言葉にあるように、それは変化している。適当に言い換えれば、中二病から離れたように見える。それは脱却ではない。中二病は卒業するものではない。何らかの形で一生付き合っていくものだと、今の俺は考えている。「みんなのいうことは筋は通ってるけど、なんだか納得できない」という感覚。やれと言われて、もしくはそうすべきだと判断して、けど素直にそうしていいものだろうかという感覚。ためらい。逆に聞く耳を持たない透徹した意志と行動。この乖離性は根源的なものだ。美徳も悪徳もそこから始まるのだ。
桜庭の書く少女たちの疾走は、ためらいのネガと言っていい。それは身体ごと引き裂かれそうな、最適解の存在しない状況への抵抗であり、不自由からまた違う不自由へと進んでいくための燦然たる力の発露だ。力を発揮するとき人は別人になる。だから少女は大人になり、大人は少女になる。それでいいと思う。少女から離れても、いつだって人は少女に戻ることができる。いつだって人は不自由なゆえに。

というわけで桜庭にはこのまま書いてもらえばいいのである。
今後はライトノベルレーベルからGOSICKだけでなく他の新刊が出たら面白いので、強く希望する。ほんといい時代になったと思う。

2007年09月11日

レイ・ブラッドベリ『二人がここにいる不思議』

 桜庭の更新しなきゃいけないんだけど貸してて手元にないんですよ。
 リトバスの更新しなきゃいけないんだけどそれはもう自分にとっては一大作業なんで障壁が高いんですよ。

二人がここにいる不思議
レイ・ブラッドベリ『二人がここにいる不思議』

 おおむね短編幻想小説。ブラッドベリはSFも書いているらしいが、これは違う。
 正直言ってくだらない品が多い。悪くないのもあるが、その他大勢な感。
 読むべきは「ご領主に乾杯、別れに乾杯!」。
 「ご領主~」や「十月の西」など、スラップスティックが非常に小気味よい。「ご領主~」の文章のテンションは、邦訳を経てもなお異常。ご一読あれ。

 気になったのは「号令に合わせて」。
 これは父親に、侵すべからざる尊厳を踏みにじられた少年の話だ。血縁の悪しき権力が人の魂を損ない、他者がそれを知りながらも介入できない、ありふれたこの世の不条理の話だ。
 休暇をホテルで過ごす主人公は、ある父子を見つける。父親は息子にプールサイドで示威行進を強制している。「ワン、トゥー」と言われれば「スリー、フォア!」と叫び行進し、「止まれ!」と言われれば微動だにしてはいけない。これは訓練ではない。訓練には目的、より厳密には区切りがある。新兵養成所では新兵になるため、必要な規律と技術を教え込まれる。兵士になっても、身体能力を維持・向上させるためのトレーニングや、枝分かれした分野の訓練は継続される。与えられたメニュー、自ら設定するステップ、どれも等しく訓練だ。軍隊に限った話ではない。学業も仕事も趣味も、見える見えないは別として、区切りの連続だ。
 「号令に合わせて」の行進に区切りはない。終わりが設定されていない。シーシュポスの岩と同じ徒労。一つだけ違うのは、少年が誇りをもって行進していることだ。なんてこった。当然の帰結とはいえ、最悪だ。
 この不幸は父親の個人的資質、狂気がもたらしたものだが、彼は対話不能な、あからさまな狂人ではない。この部分的な狂気は、誰もがはらみうる、本当に怖ろしいものの一つだ。あってはならないことだが、権力がそれを可能にする。狂気が不幸を生むのではない。権力が狂気を生み、不幸を生む。
 不幸の終わりは父親の死によって訪れる。「止まれ」を命じたまま、足を滑らせプールに落ちた父親はそのまま溺死する。「休め」と命じられなかった少年は動くわけにはいかなかったのだ。この皮肉な構図は、いささか図式的で野暮ったい。天の采配と因果応報。父子に介入する者は結局あらわれなかった。父親の凶行を、目の前にある不幸を、どうにもできない不幸として扱うのは正しいか? この小説の倫理を問うこともできるが、後にしよう。どうにもできない不幸が起こってしまったし、それは終わったのだ。ひとまず。
 少年は大人になり、主人公の前に一度だけ姿をあらわす。彼は“明るいブルーの傷ついた目”をしていて、自分があれからどのように人生を歩んだかは語らずに去っていく。この処理は凡庸だが、野暮ではない。先述の不幸とその終わりの構図は俗で野暮だが、小説の締め方は野暮でなく、その隔たりに転倒力がある。「号令に合わせて」が気になった理由はだいたいそんなところだ。

 では、目の前にある不幸をどうにもできないものとするのは正しいか?
 もちろん間違っている。間違っていると言わなければならない。
 しかしやはり、現実的にはどうにもできない。不幸は石ころのように転がっていて、我々は身一つだ。誰かの人生を背負うことなどできないように、石ころを集め続けるわけにもいかない。誰もが線を引かなければならない。主人公はそれをした。父子の姿を、視界に入るならば見つめ続けた。これは苦渋の選択でもなんでもない。これが輝ける不幸の力なのだ。父子の抱えていた石ころは格別いびつに目映く、目を引いた。目を背けるか、離せないか、そのどちらかを選ばせた。しかし、石ころは石ころだ。人はそれをいつも忘れている。忘れないと身が持たない。だが知らないのは困る。ダイヤも石ころも鉛筆の芯も、大して違わないし、全然違う。
 フィクションは自由だ。主人公はこの世の人ではない。彼らは踏み込める。石ころを奪い取ることができる。その手触りは、重みは? 投げ捨てるのか、抱え続けるのか、加工するのか。それを見せつけられるのがフィクションの強みの一つだ。この武器をふるった作品に、もっと目鼻が効くようになればいいのだが。

2007年07月30日

今月の消化

最近読んだり見たものをまとめて。
覚え書き程度の感想です。


中島らも『僕に踏まれた街と僕が踏んだ街(増補版)』
約10年ぶりの再読。すいすい読める。
60年代に少年期を生きた作家といえば、村上龍や春樹がめぼしい。龍の『69』の伝える空気とこの本の最初の半分が伝える空気は同じものだ。彼らは言いしれぬ怒りを抱えている、という印象でそれと比して僕等の世代は怒りはそうでもない、と今まで思っていたのだけれど、あんまり自信がなくなってきた。らも先生は怒りがどうとかいう次元を越えちゃってる。


サリンジャー『ナイン・ストーリーズ』
殆どの短編が、なんだかよくわからないままに終わってしまう。しかし気になる。つまり面白い。けどどうにも信じ切れない。
サリンジャーは「いつもたいてい非常に若い人たちのことを書いている」と言ったそうで、それはやっぱり正しいように思う。
「非常に若い人たち」のことを、「こんな世の中インチキだ」と気づいてしまう心性の持ち主で、またそれに伴う怒りやもどかしさをもてあましつづけてしまう、そういう人たちと読み替えるなら、だいたいの短編には当てはまっているようだ。
いちばん理解に苦しんだのは「愛らしき口もと目は緑」だ。
登場人物はベッドにいる男と女、そして男に電話してきた受話器越しの男。彼は妻の浮気を疑う夫だ。
短編の筋立てに心得があるなら、ベッドの女は夫の妻かと疑う。お約束である。ラスト数ページまではそのように読んでもボロが出ないようになっている。しかし終盤、夫は「妻が帰ってきた」という。それを信じるとするなら、男がそれを告げられた途端に電話を切りたくなり、うちひしがれたような様子をする理由がよくわからないことになる。男は今晩の妻についていくらかのことを知っていたが、夫から最後聞かされたことがなにかしら意外だったのだろう。
野暮なのだ。よくできた人物の入れ替わりも盲点もここにはない。サリンジャーがそういう出来合いを拒否するのは当たり前の話だ。


涼元悠一『ナハトイェーガー ~菩提樹荘の闇狩姫~』
構成が練られていないように思う。シーンの役割がしばしば強引に切り替えられる。
以下、敬愛する百合の大家・中里一氏の2006年12月18日より引用↓

 常人の主人公(女子高校生)が、物の怪らしき幼女に愛される話である。  造作は凝っているが、根本的なことがなにも起こらない。  「ホモ」や「ゲイ」の同義語として「やおい」や「BL」という言葉を使うBLを、私は知らない。百合はBLに相当する言葉なので、登場人物が「百合」という言葉を使うべきではない。ナラティブやフィクションに関する意識において、男性文化は女性文化より30年は遅れている。

「百合」をはやし立てる周囲の女子高生らの無邪気さや"趣味"は好ましいが(なにしろ舞台の高校はかつては女子校だ)、彼女らが「百合」と口にすることで、本来この作家が目指すべきリアリティからはずれていってしまうように思う。
「百合」と書かれるのは、いつも学園コメディタッチのシーンである。いってみれば祭りでありVIPでありネタでありベタであり、ギャルゲー的日常である。たしかにそれらは文学的美意識とはほど遠い、スノビスムの支配する領域だ。ギャルゲー畑の作者の、象徴的事態が出来したと考えていいだろう。
若い人のテクストを読んでいると、「それをそのまま書いちゃうの?」と呆れることがよくある。登場人物の美しい女性を「美しい」と形容し、彼女が凄みを見せれば「怖ろしい」と書く。基本の形容でこの有様なのだから、あとは推して知るべし。こういう不調法は、たしかに男性のほうが惨憺たるものがある。


映画 サム・ライミ『スパイダーマン』
キュートな映画だ。
日本人にうけるのはうなずける。
サム・ライミは『死霊のはらわた3』だけを見たことがある。狂気じみたご都合主義が持ち味だと思い、今回もそれを期待するところがあったのだが、さすがにメジャー映画なのではっちゃけ度は物足りなかった。


映画 スティーヴン・スピルバーグ『プライベート・ライアン』
噂通りに戦闘シーンが圧巻。
生き残り、「しっかり生きる」ことを約束したライアン。老年の彼が犠牲となった隊長の墓参りをするプロローグとエピローグに大戦時の本編が挟まれている。
やはり私には絵に描いたようなヒューマニズムが合わない。ストレートすぎ、論理階梯がショートしているように感じてしまう。
そういう意味でスピルバーグはいつも肝心なところをはぐらかし、エンターテインメントへ走ってしまうと感じる。良くも悪くもプロフェッショナルだと思う。
しかし良い映画であることは間違いない。フォローではなく、心底そう思う。


映画 ロニー・ユー『SPIRIT』
ジェット・リー主演、中村獅童共演。
よく出来ている。思う存分楽しめた。クンフーアクション映画の鑑と言っても、そんなに言い過ぎではないと思う。


映画 スタンリー・キューブリック『シャイニング』
1980年の映画。
ホラー映画の祖らしい。
感嘆したが、結構だるかった。万全の体調で、部屋を暗くして見るべき映画だ。日が悪かった。


映画 スタンリー・キューブリック『時計じかけのオレンジ』
1971年の映画。
素晴らしい。本当に面白かった。
"悪しき"人間性の話、と受け取るとひとまず腑に落ちた。
まだまだいろんな誤読ができそうで(傑作の条件)、それが楽しみだ。
目の背けたくなるような、胸くその悪い、悪趣味で残虐非道な行いが連発される。「火力」の大盤振る舞い。勘弁してくれと思う。未曾有の火力密度で、常人の所業ではない。キューブリック万歳。


映画 ラース・フォン・トリアー『ダンサー・イン・ザ・ダーク』
2000年カンヌ国際映画祭・パルムドール・主演女優賞受賞作。
序盤はだるいが、ミュージカルが始まった瞬間脳髄が叩き起こされた。
「ドグマ95」という映画製作の原則にある程度忠実に撮っているらしい。それが成功している。編集やレタッチバリバリの画づくりに慣れた我々は、却ってこういった無造作な画にすごみを感じる。なんだかドキュメンタリーみたいに見え、自分がそこに立ち会っているようだ。
それと、ビョークは背が低いしあの顔立ちだから母親に見えないw 途中まで姉弟だと思ってた。


映画 ラース・フォン・トリアー『ドッグヴィル』
トーンを抑制しつつも露骨な、文芸的な態度が鼻につくが、でも素晴らしいと思う。
セットが規格外。おかげでぎゅぎゅいと締まっている。そこは観てのお楽しみ。
ニコール・キッドマンが大変エライ目にあう。逃亡先のこの世の果てのような寒村で仕事をし、信頼を得ていくが・・・・・・
観念的道徳ひいては理性の無力さ、赦しの話、とひとまず受け取った。


映画 ラース・フォン・トリアー『マンダレイ』
『ドッグヴィル』の続編。「アメリカ合衆国 - 機会の土地」三部作の2作目。
前作ほどは引き込まれなかった。原因は「主演が変わったこと。ニコール・キッドマンが見たいよ!」「セットのあり方は前と同じだが、規模が大きくなり、閉所の緊張感が減ったこと」「同様に規模が大きくなり、土地全体がカメラに入りきらないために、神の視座にいるような把握感がない。相対的に視野が狭くなるために、付帯的なからみあいを見られる機会が減っていること」。
最後の畳み方が良くできていて、感心すると同時に詐術めいており、少し萎えた。私が読み取れていない可能性が高いが、上手な構成にとどまっている気がする。
テーマ面については、前作ほどは広がりがない印象を受ける。黒人問題という文脈が存在し、そこに観客がフォーカスしやすいのが原因だ。おおざっぱに言えば自由の話。

2007年07月26日

桜庭一樹『青年のための読書クラブ』【その一】

青年のための読書クラブ
 桜庭の新刊がいつの間にやら出ていた。
 『青年のための読書クラブ』。贔屓目だが傑作。
 桜庭は完全に脱皮した。推定少女や砂糖菓子が一度目の脱皮であった。今回は二度目だ。
 二度目の脱皮を遂げられる作家は一握りだ。桜庭はやり遂げた。万歳、万歳、万歳。
 文章に滑稽味を出すのは、とても難しい。滑稽とは上品な笑いである。笑いは難しい。滑稽はもっと難しい。『青読』はそれができている。
 詳しいことその他諸々は日を改めて書く。


 今日は初めて日記を書こうと思う。
 昨日夕方、本屋に寄ると『青年のための読書クラブ』があった。
 桜庭を偏愛している私は、当然見つけた瞬間手に取り、いそいそとレジへ向かった。
 所用を片付け、終電で貪るように一章を読み終え、あまりの面白さに感涙を浮かべつつ、祝杯のためにコンビニでリキュールを買い、我が家へ帰り、また貪るように読み、読み終えた。夜は明けかけていた。
 興奮冷めやらぬままwikipediaで「桜庭一樹」を検索した(これは習慣なのだが、素晴らしい作品に出会ったあとは、作り手のあらましをその都度確認するのだ)。
 するとなんということだろう、本日7月26日が桜庭一樹の誕生日であった。呆然としつつも、やはりこれは運命だ。ファム・ファタールだ。

 桜庭との出逢いもまた運命であった。なにか新しい本が読みたくて、とらのあなでラノベの新刊を見ていると『推定少女』が目にとまった。「推定少女」である。甘くて苦い、抗えない語感だ。どこかが壊れてしまったような繊細なタッチのジャケは、かねてよりファンである高野音彦だ。

「俺は絶対にこの小説を好きになる」

 いそいそとレジへ向かった。読み始めれば手が止まらなかった。「ここにいたのか! 俺はお前を知っていたぞ!」そう呼びかけながら読んだ。
 次作、出世作でもある『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』も同じだった。「やはりここにいたのか!!」
 二度続けばもう虜になるしかない。既刊は殆ど集めた。知る限りの本屋・古本屋を巡り、巡り続けた。期待と失望と欣喜雀躍「サ行」巡りである。

 あれから3年近くが経とうとしている。
 一度は御尊顔を拝さねばと、桜庭がゲストだったSFセミナーのためにわざわざ東京に行った。友人の頼みで表紙を描いた某SF研の冊子がさるイベントで桜庭本人に直接進呈されたと聞いたときは「俺の描いた絵を桜庭が見た! もう死んでもいい。つか本当に死ぬんじゃないか」と悶えた。
 そこそこ売れているようだし、タカハシマコ『乙女ケーキ』の帯推薦文を桜庭が書いていたり、どうやら時代は私の感性をキャッチしてくれている。
 何より『青年のための読書クラブ』で見せた脱皮は、これからの10年20年を生き抜いていくものだ。こんなに嬉しいことはない。
"Happy Birthday & Glory to you!"

2007年07月25日

友桐夏『白い花の舞い散る時間』

白い花の舞い散る時間春待ちの姫君たち盤上の四重奏
友桐夏、リリカルミステリーシリーズ「白い花の舞い散る時間」「春待ちの姫君たち」「盤上の四重奏」(コバルト文庫)

 タイトルとイラストから百合電波が出ていたので読んだ。
 中身はというと、百合ではなかった。しかし近年気にしつつも私自身整理のついていない、ある傾向を顕著に有していた。それはライトノベルや若手作家の書く物語にしばしば見られる傾向だ。『蹴りたい背中』もそうだった。
 今回はそれを扱う。


 まずは参考程度に『白い花の舞い散る時間』のあらすじを紹介しよう。
 これは、同じ塾のチャットルームのメンバーが洋館に合宿して誰がどのHNの人かを各々推理する、という文脈から始まる小説だが、次第にメンバーにミッシングリンク(隠された共通項)があることがわかり、実は合宿以前のチャットのときから「集められていた」という陰謀めいた話になる。その背後にはカルト的な教団がある。正体不明、目的不明の組織が影を落とし、その影響下に浮遊した言語空間が展開される。

 本題に移る。
 問題の傾向とは次のようなものだ。
・対人関係をモデル化しすぎる。例えば「敵/味方」にはっきりと分けたがる。
・コミュニケーションにおける「駆け引き」の側面を強調しすぎる。むしろ駆け引きのみでコミュニケーションしようとする。主人公だけでなく、周囲の人々の多くも同様のプロトコルを所与のものとしている。
・出し抜けに家族第一主義な発言をする。家族を自分にとって特権的なものと主張したがる。

 似た傾向を持つ作家には佐藤友哉がいる。友桐夏を読んでいると、佐藤友哉と乙一を思い出した。乙一の抑制を佐藤友哉に利かせたような小説だと思った。悪意とナイーブさのある小説なのだ。しかし佐藤友哉ほどには頼もしくない。佐藤友哉の小説に登場する人物の自我はきわめて弱々しいが、小説としては頼もしい。佐藤友哉の小説と友桐夏の小説の決定的な違いを上述の傾向に即していえば、

・友桐夏の登場人物達には、みな一様に「敵/味方」や「出し抜く/出し抜かれる」のプロトコルが組み込まれており、それしかない。対立する者同士のコミュニケーションはちょうど平行線のように交わらず、不毛だ。
・佐藤友哉の登場人物達のプロトコルは似ているようで異質だ。彼ら彼女らは決定的にすれ違っている。対話が良好に成立しているように見えても、根源的なところでは交差さえしていない。しかし、そのすれ違いの原因は各人の“ずれ”のみに拠っていない。もっと高次元の、場のいたずらが働いている。

 友桐夏のコミュニケーション空間をユークリッド幾何学に例えるなら、佐藤友哉のそれは非ユークリッド幾何学的だ。友桐夏の平行線は永遠に交わらないが、佐藤友哉のそれは何かのはずみで交わる。その奇跡の瞬間があるから、佐藤友哉は面白い。
 この差異は例えば「自己嫌悪」の欠如として、登場人物個人の資質にあらわれる。
 友桐夏の登場人物は、自己省察はする。しかし、発揮される洞察力は基本的には他者を攻撃するためのものだ。後悔でさえも「なぜあのときもっと巧く立ち回って、あいつを出し抜けなかったのか。私はもっと冷血にならなければ」といった形でなされる。
 そこには他者にそそがれる愛がない。眼差しは愛を希求せず、拒絶や見透かしに躍起になっている。他者は利用するものでしかなく、私を傷つける不快なものとして捉えられている。これは不快な世界像だが、そのような世界像の物語が書かれねばならなかった理由はどこにあるのか。
 身も蓋もないことを言えば、他者を認めるわけにはいかなかったのだ。認めた瞬間に小説が終わってしまう。リリカルミステリーシリーズにおいては、ミステリーの枠組みを取っ払ってしまえば、“平行線”を見せ続ける以外に筋が残っていない。各人が各人の規範に基づき続けること、敵が敵であり続けることでかろうじて成立している。叙述トリックや正体不明な“空気”としての組織や換喩的固有名詞などによって幾重にも偽装されてはいるが、ストーリーを生成する根拠となっているのは、キャラクターの静止した位置関係でしかない。
 これはとても臆病なあり方だ。デザインされたキャラクターが、その自我をわずかとも揺るがされることなくあり続ける。随分と哀しい生き方を選択したものだ。
 この痛切な臆病さが、歪なコミュニケーション空間を持つ物語たちの根っこにある。
 では、一体何が我々を臆病たらしめているのか。
 この文章を書き始めるまでは「整理がついていない」としていたが、途中で答えを既に知っていたことに気づいて、自分の呆れるほどの鈍さを歯痒く思った。
 『今や日常生活世界が戦場という非日常を内包しているのだ』
 虚構化された不快な世界像は、戦争を内在した日常世界の正確な反映だった。
 だから、彼ら彼女らの小説がしばしば出し抜けに家族信仰を見せる理由も自明のものとなる。
 それはもはや存在しない非戦地帯の影であり、抵抗にもならない憧憬なのだ。こんな馬鹿馬鹿しい正体も見抜けないまま読み進めていたとは!

「くだらないわね。そんなこと教えてもらったって何の役にもたたないわ。その女と共瞑会とのかかわりも、あたしと亜梨栖が取り替えられることになった経緯も、あんたがどうして伶沙の弟として彼女たちと一緒に暮らしていたのかも、あたしには本当にどうだっていいの。ひとつ目の質問は、あたしの両親を交通事故に見せかけて殺したのは誰なのかということ」 ――白い花の舞い散る時間,269p

 宵子か。
 深月は苦いものを噛んだ気分になった。
 直接それを命令したわけではないだろうけど、でも彼女という存在があったせいであの二人が亡くなったのだとしたら、あたしはあの子を赦せないな。 ――同,271p

2007年04月05日

森見登美彦『太陽の塔』

太陽の塔
森見登美彦『太陽の塔』(2003,新潮社)

諧謔文体が面白いです。説明不能の幻想的要素に感じる処女作の熱気もよい。

主人公は京大農学部5回生で、休学中の身。モテない男である。かつてつきあっていた水尾さんに影からつきまとい、それを「水尾さん研究」と言い張るところから物語は始まる。
同じようにモテない個性的な友人との、突飛で少し不思議だが、どこかありえそうな大学生活(行ってない)がメイン。


*風景について
森見は固有名詞つきの街を描く作家であり、そこでは登場人物たちが出会ってはなにかろくでもないことをしている。「太陽の塔」というランドマークへの愛着が代表するように、異物の集合として街を描いているように思う。俗に言う、「表情のある」風景を描いているというよりは、風景はいつも無愛想だ。そしてもっとも無愛想な風景が「太陽の塔」である。
物語をやるには人物と場が必要で、そのためになにか印象深い風景を描きたくても、小説は文字で逐一伝えるしかないので、自然と注意したものを取り上げていくことになる。このとき「異物」を使うと効率がいいことに気づく。固有性は差異でしか描けない。しかしそのうち「異物」というのはもっと面白いものだと気づく。シーンや世界を演出するための異物が、いつの間にか目的になっていく。だいたいそういうことなんじゃないかと思うのだが、まあこれは妄想である。


*「ええじゃないか騒動」と嫌恋愛
四条河原町に巻き起こる「ええじゃないか騒動」は痛快。主人公が「ええわけがない」と返すのがよい。

この「ええじゃないか」はクリスマスという恋愛至上主義的イベントへの反抗として企画される。
日本人は目下の処恋愛病にかかっているという考え方は目新しくない。モテない青年が、「ていうかなんで恋愛しなきゃならんのさ」と素にかえって周りが猿に見えるのは普通のことだ。でもそんなこといわれてもなぁ――娯楽でもあるし、人生設計のあしがかりでもあるし、体験としても上等な部類なんですよ、恋愛は――というのが益体のないマジレス。そのように反論できるからといって本書の立場ひるがえって本書そのものに価値がないと言いたいわけではけしてない。
森見さんは最近人気が出てきているようだが、ぶっちゃけそれほど面白いとは思えなくて、ボキャブラリーの豊富さや、一歩引いた眼差しの真っ当さとか、美点は多々あると思うのだが、どうにもありがたがれないのである。軽やかなのはいいが、安心してるんじゃないのと思うのだ。肝心なところをはぐらかされているような。
もちろんその手応えのなさは本人の演出であり、素でもあるのだが。


*幻想の出逢い
同作家の『四畳半神話体系』(2004)も既読で、「随分と都合良く人物に出会うなぁ」という印象を『太陽の塔』と共に持った。重要な助言をしてくれる占い師に出会ったり、何の因果か追われて袋小路に来たところで、喧嘩中の人物に出会って助けられたりするのである。
フィクションなんてものは人が人と出会わないと話にならないのだが、普通はもうちょっと必然性のある出逢い方をさせるなり、自然な流れを装うものである。だがこの作者は「無理して装うことはないんじゃない?」という考えのもとに書いているのがわかる。「アリだなぁ」と僕は思った。
その出逢い方が妙である。偶然の場合が多いようだが、どこかしら運命的で、必然とも感じられるようにできている。例えば『太陽の塔』において、「夢の中」での人との出逢い方と、現実世界での出逢い方は似ている。むしろ夢に現実が似ている。街を歩いているうちに、どういうわけか出会ってしまうのである。現実と幻想は地続きになっている。文学評論のタームを出せば、マジックリアリズムというやつである。

「出逢い」が森見先生のキーワードだな、と思ってふとご本人のサイトを見ると、『夜は短し歩けよ乙女』の紹介においての引用を見てなるほどと思う。

 私はなるべく彼女の目にとまるよう心がけてきた。吉田神社で、出町柳駅で、百万遍交差点で、銀閣寺で、哲学の道で、「偶然の」出逢いは頻発した。我ながらあからさまに怪しいのである。そんなにあらゆる街角に、俺が立っているはずがない。「ま、たまたま通りかかったもんだから」という台詞を喉から血が出るほど繰り返す私に、彼女は天真爛漫な笑みをもって応え続けた。「あ!先輩、奇遇ですねえ!」

300ページ近くある文章から抜粋されたのは、「偶然の出逢い」について濃縮されたもの。
さて、この一致は偶然だろうか?

2007年02月21日

バリントン・J・ベイリー『時間衝突』

時間衝突
バリントン・J・ベイリー『時間衝突』(1973)
1989年の創元SF文庫版を読んだ。


無時間マトリクスとしての宇宙の中で、局所的・例外的に時間流がうまれた系でのみ生命の発生が可能で、主人公等の地球の時間とちょうど逆に進む時間流に生きる地球種族が存在し、このままでは正面衝突して彼らの生きる時間は静止し破滅をむかえることになるがどうしようか、というのが大筋。

小説としてどうとか、読んで何か残るとかではなくて、SF的アイディアや奔放で自由な展開を楽しむタイプの本。ワイドスクリーン・バロックって言うらしいですよ。
地球を支配しているのが処置なしの純血主義の民族で、他にも偏向した種族がでてくるし、いろいろ直球なのだがその手の政治的な設定でテーマを扱っているのではなくてSFするためのにぎやかしに徹しているのが潔い。
要の時間論や正面衝突のアイディアはとりたてて破天荒ですごいとは感じなかった。
地球に生きる相対する時間の種族らが、揃いも揃って敵の生命系を抹殺して生き延びようとする(抹殺しても時間流の衝突は避けられない。時間流が先に発生したからこそ生命がうまれた)のは愉快。殲滅の手段が核兵器とウイルス兵器であることに注意。
オーヴァーテクノロジーを持つISS(星間宇宙社会)の一つレトルト・シティがあまり熱心ではない脱出の支援者として登場する。レトルト市民は中華の血をひいている。生産レトルト市民(労働者)の趣味がスポーツで、ホカという「数千年にわたって発達してきた格闘技の頂点に位置する武術」を使う。これが強すぎる。相手の首筋に触れるだけで気絶させたり殺したりできる。中国拳法への幻想エスカレートバロス。ホカをつかう労働者達が娯楽レトルトを奪還しに攻めてくるのが個人的には面白すぎた。しかも時間操作装置使ってるからマトリックスのアンダーソンも比じゃねぇっての。
甫蘇夢(フースームン)がタイタン指導者に取り入って、レトルト・シティの社会構造を革命するために侵略を促すくだりは、その後の展開への期待を含めて佳し。「斜行存在」とかいうデウス・エクス・マキナと対話したり(その描写はまさにドゥルーズ的「諸機械」)、説明するとキているネタが多くて愉快そうなのだが、文章が狂っていないので正直そこまで面白くはない。アイディアはぼちぼち良いが調理に配慮が足りない。大味なバカさ加減を楽しむ作品とはいえ、圧倒的な奔流に仕立ててもらわないとどうにもノリきれない。似たタイプの作品でいえば『タウ・ゼロ』はかなり良かったんだけど。宇宙船に乗ってウラシマ効果を極限まで受け続けて、宇宙が縮小し、新しく拡大し始めた次の宇宙まで旅をするなんて面白すぎる。


さて、批判的意味合いナシに(全くナシかどうかは知らないが、デリケートな扱いはまるでされていない)エスノセントリズムや帝国主義をフィクションに登場させられるということは、そのような考え方がお笑いぐさであることが共有されてきて初めて可能になる。少なくともベイリーのイギリスでは、1970年代とはそういう時代であったようだ。1937年生まれのベイリーは赤狩りの顛末を多感な時期に見ている。とある価値観にもとづいた政治的な立場があからさまに称揚され猛威をふるっていても、それはいずれ衰退する。今はもっと狡猾だ。目に見えないからこそ持続的な支配が可能になる。エスノセントリズムや打倒共産主義は流行らないけれど、似たような蒙昧が名前を隠してそこらじゅうにあるのが我々の時代だ。

2006年10月27日

貴志祐介『クリムゾンの迷宮』

ご無沙汰してます。軽いネタから復帰ということで。

クリムゾンの迷宮
貴志祐介『クリムゾンの迷宮』(角川ホラー文庫,1999)

佳作。思い入れなぞあるはずもないのできちんと解説はしないけど、設定やプロットを元に思考実験をする。


*導入
主人公が目を覚ますが、なぜ、どこに、いつ、どのようにここにいるかわからない。経緯についての記憶は消されてるようだ。周囲の風景は異様。荷物をみつける。水と食料、そして携帯ゲーム機。ヴァーチャルリアリティの世界かと思ったけど読み進んだら違った。オーストラリアのバングル・バングル国立公園内だった。今は閉園期間。

*以降
ヒロインと出会う。この時点で彼女が黒幕と通じた存在であることは読める。
携帯ゲーム機に指令をうける。どうやらサバイバルゲームに参加しているらしい。
第一チェックポイントにはすでに数人が待っている。みんなのゲーム機にはそれぞれ別のメッセージが与えられてて、ひとまず共有する。ヒロインのゲーム機は主人公と遭遇したときに手違いで壊れている。与えられたはずの情報が得られないのはうまい。これは明示的なものだが、記憶喪失しかり、基本方針は情報の欠如を埋め合わせる運動への誘導。ゲーム・作品世界に通底するルールとはなんであろうか?という軸。
天然の迷宮を探検してチェックポイントを通過していくゲームなのだが、「サバイバル用品」「護身用品」「食料」「情報」のルート選択を強いられる。
主人公とヒロインは「情報」を得ていくために参加者内では超越的視点を持てる。のちに盗聴もできるし、優越性が読んでいて気持ちいい。
おかげさまで比較的容易に食料も調達できる。問題は対人威力の欠如。これがデスゲームの緊張感を担保する。
またゲームは、小説内小説のとあるゲームブックを下敷きに仕組まれたものらしく、件の小説も手にする。虎の巻を握れるのは面白いが、もっと重層的に使って欲しかった。実際的には攻略本であり、メタ的には預言書であり、また罠でもありうるガジェットだったのでもったいない。
その他のアイテムは電池が盗聴の制限時間として機能してたのが良い。全員支給のゲーム機とヒロインの補聴器(胡散臭い!)に共通型の電池が使われていて、これを盗聴器の受信機の電源に流用できる。盗聴器はゲーム機に仕込まれてる。

*締め
金持ちの道楽のスナッフビデオ用に踊らされてたらしい。なんてつまらない合理的説明だろう。正体不明の組織があるのも仕方ないが、主人公は彼らを突きとめようと復讐を誓う。同時に黒幕の駒であったヒロインのことも捜す。小説内小説のゲームブックのトゥルーエンドとだぶらせて終了。普通すぎる。

*雑感
主人公は大手企業に就職してなんも考えなくても順風満帆でいたけど会社が破綻してホームレス同然になってたという設定で、その体験とデスゲームを合わせて人生観についてちょろっと言及したりするが踏み込みが足りない。
主人公は大学でゲーム理論をかじっているらしく、ゲームへの自己言及をアカデミックに軽く入れてるのは佳。でもやっぱり浅い。
そんなこんな読んで残るものはないが、一気に読めたしエンタメとしては高評価。
ではその「読ませる」理由はなにか。
文章は叙情性もため息のもれそうな表現もなく、読みやすいだけの不可のないもの。
生きるか死ぬかの状況設定、ルールの読み解き、情報戦の優越性と威力戦の劣等性のバランスが肝か。
早い段階で欠損情報の存在を演出するのはうまい。読者に参加をうながせる。
こういった設定構築やプロッティングは流用しやすいが、それだけでは成立しないし何を伸ばせるか考える。


まずは「限界状況」。
隔絶された空間で抑制を取っ払った個対個の闘争を演じるにしても、理性の鋳型となる社会装置の逆照射や、生存圏と非生存圏の境界の話はどうしてくれるのかと思った。
以上。

次は「コミュニケーション」。
序盤でヒロインと同盟関係を結ぶまでは、限界状況(正確にはこの時点では白紙状態)下で結ばれる関係性をそこそこ書けてた。ゲームが本格的に始まると他の参加者とは敵対する接触が多くなって、複雑な駆け引きの醍醐味はなかった。敵か味方か不定のままに関係性を描くのが面白いはずなんだが、世に溢れるデスゲーム作品も大抵あっさり敵扱い。まあ難しいですね。
関係性といえばコミュニケーションをどう描くかになってくるけど、日常的に使ってきた対話のプロトコルをご破算にされたあとに代替のプロトコルが形成されていく様が見たい。僕らが普段使っている言葉やボディランゲージやそれらに回収されない空気は学習してきたもので、別の学習過程を見ることは「所与の」プロトコルを問い直してくれる。人物同士の相互作用により想像を凌駕する畸形なプロトコルを形成するかもしれないし案外紳士的なものに落ち着くかも知れない。例えば普段つきあわないような人たちの集まりに参加したとき、会話に入っていけなくて落ち着かないと思うけど、なにも顔見知りがいないとか共通の話題が少ないとかいう問題じゃなくて、そもそもコミュニケーションのやり方が異なっている。関西人が関東に行ってボケてもツッコんでもらえないとか。ちょっとした文化圏の違いでもうプロトコルは違う。だけど外国に行ってもなんとか道を聞いたりできるように、恐らく人類共通の部分もある。じゃあそれってなんなのか。
代替プロトコルを獲得するなかで言葉や振る舞いは変容してくるだろうし、それは人格や身体に影響してくる。これを登場人物が非日常的物語に放り込まれたせいで変わっていった、とまとめるのは勿体ないことで、対話が現実に作用する力に注目したい。

ちょっと泥沼になるので話を戻して、「欠損情報」について。
物語は欠けたものがないと動かしようがない。円満なカップルについて書かれても面白くないし、そもそも円満なんて存在しない。たまたま円満な部分を切り取って並べただけで、反対にあまねく欠損のどれを切り取るかが物語を規定する。『クリムゾン』はゲームのルールらしきものが欠損していて、いわゆる近代小説なら「(内面の)秘密」とかになるんだろうけど、どちらにせよ「隠蔽」されている。で、ゲームのルールだとか犯罪のトリックだとか内面の実存的懊悩とかは正直もう見たくない。となるとまず思いつくのは「不在」「不可視なるもの」「名前なきもの」「非存在」これらを存在するように見せることか。地味で難しいですね。基本中の基本の構成(というかなんらかの秘密がないとフィクションなんて成立しない)をいちいち自己言及的にテーマと関連させてなんていられませんか。

次は「意外性」の話。
アクションシーンの機転を利かせた窮地からの脱出だとか、さりげない伏線が結びつく展開や他愛ないアイテムが重要な機能を発揮する意外性だとかは作劇の基本だろう。ここで内田樹の書いていた「ブリコラージュ的知性」、興味深く読ませてもらったのだけどフィクションの面白さと関係が深いと感じたので絡めて書いていく。

レヴィ=ストロースは『野生の思考』の第一章「具体の科学」で、このような「ありあわせの道具材料を使いまわしして技術的要請に応える態度」を近代人の「科学的思考」に対して、「神話的思考」と名づけました(「野生の思考」とはこのことです)。

ブリコルールの野心は「有限のリソース」から「無限の意味」を引きだそうとするところにあります。

『クリムゾンの迷宮』では、チェックポイントで得られるアイテムのリストとその重要度を教えてもらえるのだけれど、例えば「釣り糸」の重要度が高かったりする。これは野生動物を食用に捕まえるためのトラップに使われる。こういったサバイバルの知恵を前提にして、奪い合うことになる有限のアイテムの重要性が評価される。この評価基準は迷宮の環境を吟味しないと制定し得ないし、現地人が長年培ってきた生活様式が生かされている。サバイバルを描くには道具とも思ってみなかった物を活用する観点が不可欠であるし、さらに前述の「アクションの最中の機転」「伏線回収」「ノーマークの素材が大活躍」だとかの説話論的水準を越えて、作品の根底に「野生の思考」が適用されればその作品は本質的な「意外性」を獲得するのではないか。作劇手法から(恣意的に・・・・・・)見出される「野生の思考」が「神話的思考」と呼ばれているとは小気味よい。神話的思考と説話論の関係をテーマに本の一冊でも書けるのだろうが、これは僕の手には負えない。
趣味的な、しかも一部の人にしか通じない、即ちたとえ話としては最低の話をすると、『ひぐらしのなく頃に』はある期間を選択肢無しで複数回描き、かつそれぞれの「一回」はまったく異なって見えるようになっている。これは「ループゲーム」というサブジャンルと「選択肢」というシステム要素をブリコラージュしたものに他ならないのではないか。『ひぐらし』の破格の面白さは色々理由があるけれど、根底に働くブリコラージュ的知性が僕たちを熱狂させるのではないか。
ブリコルールは「意外性」をもたらす。なにやらトートロジーめいてくるが、「意外性」とは受け手に予測されなかった故に発生しうる、「有限」の作品内情報をもとに「無限」(即ち予測不能)の意味・可能性のうちの一つが結像する、感動的な達成ではないか。注意したいのは作品内のリソース・素材から達成された「イメージ」そのものの新規性(一回的意外性)とは無関係に機能する。
ブリコラージュがジャンルを横断する形で行われたとして、その突破は読者のジャンル認識を変容させてくれる。ここにおいて作り手と受け手は最良のコミュニケーションをとっている。
その類の作品がものされる頻度が件のメディアの活発性と健全性の指標になるので、どうやらまだまだギャルゲーは死んでないな、ってそれが言いたかったのか。

とりあえず以上です。随分と当たり前のことを移り気に書いたけど、その当たり前のこと各々に相応の分量をひねり出せないのはもう単純に勉強不足。フィクションばっか読んどったらあかん。